[#表紙(表紙.jpg)] 平岩弓枝 御宿かわせみ 目 次  初 春 の 客  花 冷 え  卯の花匂う  秋 の 蛍  倉 の 中  師 走 の 客  江 戸 は 雪  玉 屋 の 紅 [#改ページ]   初《は》 春《る》 の 客《きやく》      一  三日ばかり鋭い寒気が襲ったかと思うと、不意に大川の水もぬるむような日もある初春《はる》であった。  日暮方から悪友の集りに顔を出して、宴が果てたのが、もう夜更け。  南町奉行所の吟味方与力をつとめている兄の屋敷は、とっくに門のしまっている時刻であった。  屋敷を出る時から、心のどこかで、今夜は大川端《おおかわばた》町の、|るい《ヽヽ》の許へ行くつもりがある。  神林東吾《かみばやしとうご》は仲間と別れると、自然、酔った足をそちらへむけていた。  豊海《とよみ》橋の袂《たもと》から少しはずれて「御宿かわせみ」と小さな行燈《あんどん》が夜霧の中に浮んでみえる。  星も月もみえない、しっとりとした晩である。  ここも、とうに表戸は閉っていると思ったのだが、近づいてみると内に人の声があった。  忍び男が、それもこんな時刻に表から入るのは、いささか気がさしながら、るいの声もきこえている。酔いと若さにまかせて、東吾は馴《な》れたくぐりを押した。 「あら、東吾さま……」  上りがまちに立っていたるいが、嬉しさを奉公人の手前、僅かに抑えた声をたてた。  正直なもので、白い頬がすぐ上気して、なんとなく衿許《えりもと》へやった手に、女らしさが匂いこぼれるようである。  ちょうど、正面の階段を男女の客が、そそくさと上って行くところであった。案内して行く女中の手燭が、大きな男と小さな女の後姿をぼんやり浮び上らせている。  大きい男だということと、その男が頭巾をかぶっていたのだけが、東吾の印象に残った。 「随分、遅く着いた客だな」  ふっと、るいをみる。 「それが、びっくりしたんですよ」  老番頭の嘉助《かすけ》が表戸の桟を下した。 「女の人、一人かと思って、お宿をお引受けしたら、妙なのがお連れでございましてね」  るいの話だと、最初に戸を叩いて、一夜の宿を頼んだのは、女のほうだったという。 「若い娘さんだし、なにか事情がありそうだとは思ったんですけれど、うちで突き放したら、それこそ、とんだことになると思って、場合によっては、ひと晩、話相手にもなろう、お節介も焼いてみようって……そのつもりでお引受けしたんですよ。そしたら……」  女が、一度外へ出て、待っていたらしい大男を伴って入って来たのだという。 「今更、困りますともいえませんでしょう」  細い眉《まゆ》をちょっと寄せた。 「るいにも似合わぬ野暮をいうじゃないか。男連れじゃいけないのか」 「そうじゃありませんけど、東吾さま、ごらんになったでしょう。頭巾をすっぽりかぶって、眼しかみえないんですよ、あの男……」  今でこそ、宿の女主人だが、二年前までは八丁堀で鬼同心といわれた男の娘である。  東吾の兄の神林|通之進《みちのしん》などは、今でもその死を惜しんでいるが、三年前、ちょっとした事件がもとで失脚し、失意の中に心臓の発作で倒れた。  一人娘なので、本来なら、るいが養子をもらって家督相続が出来なくもなかったのに、彼女は役宅を返上し、町家暮しを半年ほどしてから、この宿をはじめた。  父親が苦労人で下の者によくしていたから、彼女がこうして商売をするようになった時、以前の奉公人がかけつけて来て、老番頭も女中頭も、八丁堀時代からの使用人であり、東吾とも古い顔なじみだ。  深夜に、奇妙な二人連れの客を泊めてしまいながら、その割に平気な顔をしているのは、八丁堀で育った気の強さだろうと、東吾はるいを眺めた。  東吾より一つ上だから、今年の初春で二十二になった筈のるいであった。女としては、薹《とう》の立ったほうだが、町家住いをはじめるようになってから、ふっくらと顔色もよくなって、むしろ若返ったような感じでもある。 「お嬢さん……」  二階へ客を送った女中頭のお吉《きち》が戻って来た。 「御膳はすんで、お風呂も結構だとおっしゃいますので、お床をのべて参りましたが……」  声を更に低くした。 「殿方のほうは、部屋へ入っても頭巾をとらないんですよ。ひどい火傷《やけど》があって、人にみられたくないのだとか……お連れさんがおっしゃってましたけども……」 「いったい、どういう人でございましょうねえ」  黙って、すわっていた嘉助が口をはさんだ。神妙に町人|髷《まげ》で前掛をかけているが、もとは八丁堀の捕方《とりかた》で、さんざっぱら、凶悪犯とぶつかって来た凄い男だ。 「なりからいったら、まあ町家のかけおち者か、媾曳《あいびき》かでしょうが……。あの大男は得体が知れませんな」 「仕様がないでしょう、泊めちまったんだから」  るいがおきゃんな声を出した。東吾が来たことで、客への関心など、どうでもよくなっているという調子だ。 「お嬢さんは御心配なく、今夜は嘉助さんと私が不寝番を致しますから……」  お吉が心得て、東吾は漸く、るいの部屋へ通った。 「なんだか、部屋が色っぽくなったと思ったら、炬燵《こたつ》布団が変ったんだな」  紫地に大きく梅の花を散らした友禅の炬燵布団におそろいの座布団が敷いてある。 「お正月ですからね」  るいはお吉が用意してきた酒の徳利を長火鉢の銅壺《どうこ》へ入れた。 「酒はもういい、番茶が飲みたいな」 「じゃ、真似だけ……年があけてから、はじめてですもの」  上眼づかいに睨んでみせる。 「正月中は兄貴が屋敷にいる。出にくかったんだ」 「お義姉《ねえ》さまのお酌で鼻の下を長くしていらしたんでしょう」 「馬鹿……」  八丁堀時代は生まじめで、冗談もいえなかったるいである。 「るいは変ったな」 「あばずれになったとおっしゃりたいんでしょう」 「いきいきして、色っぽくなった……」 「でしたら、どなたのせい……」  東吾がひきよせると、るいは大輪の花のように崩れた。藤色の正月の晴れ着に、るいの好きな香の匂いがしみている。 「ちょうど一年だな」  唇をはなして、呟いた。  二人が他人でなくなったのが、この前の正月、やはり、この部屋の炬燵で酒を飲んでいた。 「るいがお飽きになったら、いつでも捨てて下さいまし」  眼を閉じたまま、るいが切なげにいった。言葉が終ったとたんに、眼尻からすっと涙が落ちる。 「赤ん坊の時から惚れてたんだ。今更、飽きてたまるものか」  まだ、よくついていない酒を盃にあけ、口にふくんで、るいの唇へ移した。 「今年の三々九度だ。るい……」  抱いて、隣の襖《ふすま》をあけた。もう、夜の仕度が出来ていた。  眼がさめたのは、なにかの物音のせいだったようである。  よりそって眠っていたるいが、かすかに身動きした。 「起きていたのか……」 「いえ、今、物音が……」  二人とも、同じ音で眼をさましたものらしい。夜はまだあけて居らず、部屋は暗い。  かすかな物音が、その時、頭上でした。  この部屋の屋根の上を、人が忍びやかに歩いている感じである。 「東吾さま……」  るいの唇を、東吾がふさいだ。  しんとした中に、男の声がきこえる。東吾が聞き耳をたてたのは、それがひどく聞きとりにくかったためである。続いて、又、男が話している。 (南蛮語……)  独特の発音に記憶があった。三年ほど前、長崎に出張を命ぜられた兄嫁の父、目付役|麻生源右《あそうげんえ》衛|門《もん》について、半年ほどの長崎滞在の折、阿蘭陀《オランダ》屋敷と呼ばれる南蛮人居留地で耳にし、いくらかは習いもした異国語のような気がする。  東吾が起き上ると、るいが無言で身仕度を手伝った。  屋根から人のとび下りる音があった。軽い動作をおもわせる音である。  手早く、庭にむいた小窓を東吾が細くあけた。  僅かな間に、夜のふちが白くあけかけている。大男が女を背負って逃げて行くのが、ちらとみえた。  るいに手燭をつけさせ、二階へ上った。  帳場《ちようば》で不寝番をしていた嘉助が仰天してとんでくる。  昨夜遅く、二人を通した部屋は、夜具がきちんとたたまれて、窓が半分、開いていた。  寒気がそこから、じわじわと這い込んでくる。 「しまった」  嘉助が慌てて追いかけようとするのを、東吾が制した。 「待てよ。別に盗っ人じゃなさそうだ」  片づけた布団の上に、紙片があった。平打のかんざしがおいてある。 「お金がないので、これをかわりにおいて行きます」  細い女文字であった。 「こんなこと……、うちは別にお代なんか頂かなくたってよかったのに」  るいが窓から下をみた。  白く霧が流れていて、人の姿はみえない。遠くで犬の啼く声がした。 「あの男……黒ん坊かも知れないぞ」  東吾の言葉に、嘉助が眼を丸くした。 「黒ん坊……」  江戸では耳馴れない言葉であった。 「みんな、このまま、寝るがいい、俺はちょっと、様子をみてくる……戸じまりはしちまってくれ」  他の泊り客に気づかれぬよう、東吾は再び、足音を忍ばせて、階下へ下りた。      二  足にまかせて走りまわっている中に、夜があけてしまった。  るいの許へ帰るにしては遅すぎるし、兄の屋敷へ戻るには早すぎた。  東吾が足をむけたのは八丁堀の定廻《じようまわ》り同心、畝《うね》源三郎《げんざぶろう》の屋敷である。  幸いなことに、ここの主も独り者であった。 「滅法早いですな」  髭の濃い顔で、源三郎は老婢が慌てて運んで来た火鉢を中に、東吾と向い合った。  子供の時から、学問も剣術も同門の親友で、身分は違っても、気のおけない間柄である。 「畝源三郎が今頃まで朝寝をしているところをみると、八丁堀も暇らしいな」 「昨夜は町廻りでしてね、誰かさんのように、朝帰りでした」 「昨夜、町廻りか、そいつは都合がいい。なにかあったか話してくれないか」 「折角ですが、ろくなことはありませんでしたな。酔っぱらいの喧嘩口論、食い逃げ飲み逃げの未遂……ま、そんなところで……」 「それにしては、朝帰りとは解《げ》せないな」 「実は……」  源三郎が苦笑した。 「役儀なれば、お名前は明かせませんが、さるお方のお忍びがありましてね」 「お忍び……」 「小梅の某町人の寮で、連歌の催しがあったそうで……その道中の警固に、それとなく……」 「成程、定廻りもとんだところに狩り出されるものだな」 「すまじきものは宮仕え……」  やがて粥《かゆ》が運ばれて来た。主人の源三郎がまめな律義者だけに、ここの家の奉公人は気のきく者が揃っている。 「そういえば、向島のほうの、やはり寮の女中が、黒い犬をつれて逃げたという話がありましたよ」  源三郎が粥をすすりながらいった。 「黒い犬……」 「はあ、なんでも長崎のほうから来た女中で」  東吾が箸《はし》をおいた。 「その話、くわしく知りたい。教えてくれ」  畝源三郎が、東吾を連れて行ったのは、向島界隈を縄張りにしている喜助という岡っ引の家で、これは本業が船宿《ふなやど》であった。  昨夜からの霧が晴れて、今日はあたたかそうな陽《ひ》が川面にさしている。  昨夜、女中と黒い犬が逃げたという寮は大川に面していて、家のまわりは鬱蒼《うつそう》と木立が囲んでいる。 「以前は蔵前の札差の持ちものでしたが、今は銀座のお役人が借りているような話でして……その辺のところは手前どもにはわかりません」  滅多に人は来ず、留守番に何人かいるようだが、まわりを木立が囲んでいるため、なかの様子は全くわからないという。  女中が逃げたと知ったのは、昨夜四ツ(午後十時)頃に寮から人が出て、なにか探しているようなので、訊ねてみると、女中と黒い犬がいなくなったという返事で、 「なにしろ、昨夜は、旦那方から川っぷちを見張るようにいわれてましたんで、うちでも若《わけ》え者が総出で霧ん中をまわってました。それでまあ、寮の連中と行き会ったんですが」  喜助は緊張していた。なにか落度があったのかと不安らしい。 「逃げた女中というのが、長崎の女だそうだが……」  源三郎が、東吾のかわりに訊いた。 「へえ、ですがね、少し、頭の可笑《おか》しい女で、よく、お狐さんが憑《つ》くんだそうですよ」 「狐つき……」 「狐がつくと、ふらふらと家を出て行っちまうんだそうで……」 「しかし、それにしては黒い犬が可笑しいな。狐は犬を嫌うそうだが……」  東吾が口をはさみ、源三郎が東吾にだけ通じる苦笑を洩らした。 「へえ、ですから、その、犬は女中を追っかけて、それで女中が逃げたんじゃねえかと」  頭を掻いて、喜助が続けた。 「それに、その女中は、もう帰って来て居りますんで……」 「なに……帰っている……」 「さっき、うちの若えのが、寮の近くを通りますと、昨夜の男が挨拶して、ご心配をかけたが、狐つきの女中は、狐が落ちたかして帰って来たからっていったそうです」 「黒い犬はどうしたんだ。犬も帰って来ているのか」 「そりゃ、どうも、一向に……」  その寮を東吾がみたいといい出し、やがて、喜助が案内に立った。  成程、川っぷちのかなり大きな寮であった。周囲は生け垣だが、すぐに巨木がこんもりと枝葉をひろげていて、どこに家があるのか、なかの深さは計り知れない。  垣根について半周した時、裏木戸から男が一人、出て来た。喜助をみて、 「昨夜はどうも……」  と小腰をかがめる。 「女中は帰ったそうだね」  如才なく、喜助が応じた。 「へい、おかげさまで……親分には大変、手数をわずらわせまして……いずれ改めまして御挨拶に……」  男は、ちらと畝源三郎と東吾を気にした。頭を下げて行きすぎようとする。すかさず、東吾が声をかけた。 「黒い犬はどうした……黒い犬は帰って来たのかい」  ぎくと男の足が止った。  そのまま、東吾の声が聞えなかったかのように背を丸めて走り去った。 「余程、黒い犬が気がかりな様子ですな」  喜助と別れて大川を戻りながら、源三郎が東吾の横顔をみた。 「源さんは、どう思う……」  東吾は向島から川むこうの町並へ眼をやった。 「昨夜、霧の深いこのあたりから舟が出た。舟を漕いだのは、雲つくような大男だ。女が一人、乗っている……その二人が、やがて、大川端町のかわせみに現われた」 「かわせみ……」  源三郎が、くり返す。 「夜明け前、その二人は逃げ出したんだ。宿銭のかわりにかんざしを一本おいてな……」 「成程、それで、あんな時刻にお出でになったんですな」 「源さんは、南蛮語を知っているか」 「いや……」 「長崎には、南蛮語を喋《しやべ》る黒ん坊というのがいたよ。阿蘭陀人など、皮膚の白い連中から、ひどい扱いを受けている。多くは奴隷として一生飼い殺しだそうな」 「南蛮の絵としてはみたことがあります。話にも少々はききましたが、掌と足のうらをのぞいては、墨でも塗ったようなまっ黒だそうですな」 「いや、それほどでもない。黒いには黒いが陽によく焼けた漁師の肌のようなものだ」  源三郎が、ちょっと黙った。  舟を漕いでいるのは、喜助の家の船頭であった。少々、耳が遠いのが、こういう時は、便利でもある。 「しかし……まさか、黒い犬が……」  源三郎が水をみた。 「黒ん坊とか申す者、よもや、江戸へは入れますまい」  異国人が江戸へ入ることは、例外を除いて禁制であった。長崎へ三年前に来た露国の船も、再三の懇願にもかかわらず、遂に長崎からは一歩も入れず、追い返している。 「長崎でも、異国人は異人屋敷の外へは一切、出歩けないようになっているという話ですが……」 「その通り……、しかし、何事にも裏と表があるのではないか。江戸へ入れぬ者が入っているとしたら、そも、なんのために、何者が……」 「東吾さん……」 「どうも平仄《ひようそく》が合いすぎるのだ。黒い犬と女中と……」  東吾が源三郎の耳に口をよせた。 「女も気になる……俺は、ひょっとして、あの女が混血児じゃないかと思い出したんだ」 「混血……」 「長崎には多い。唐人と日本人、阿蘭陀人と日本人……殊に阿蘭陀人と日本の遊女の間に生まれた子は美しい。肌はすき透るほど白く、髪は茶、時として金色にもなる。瞳は蒼い」 「どうなるのですか、そういう子は……」 「女だと、遊女になっているのが多かった。物珍しがって、よく客がつくそうだ」  源三郎が再び、沈黙した。  舟はゆっくり、豊海橋の袂に着く。源三郎はそこで、東吾と別れた。 「八丁堀まで連れて行っては、おるいさんに怨《うら》まれますからな」  別にいった。 「黒い犬のこと……暫く、おまかせ下さい。いずれ又……」  冬の早い陽が、もう暮れかけていた。      三  数日を、東吾は神妙に屋敷にいた。 「珍しいことがあるものだな。明日あたり、大雪になるのではないか」  香苗《かなえ》に袴の紐を結ばせながら、兄の通之進は、わざと聞えよがしに東吾にいう。 「東吾様の神妙はあてになりません。一度、お出かけになったら、梨のつぶてでございますから……」  兄嫁の香苗はいつもの調子でおっとりと笑っている。 「どこへ参るのもよいが、行く先だけはいいおいて出かけるように。なにがあっても俺は知らぬぞ」  一まわり以上も年が違うので、この兄は東吾にとって父親のような口のきき方もする。  実際、父親が早く死んでから、兄の存在は或る意味で父であった。父のように怖いと思うこともある。が、弟思いの多感な兄であることも、東吾が一番よく知っていた。  吟味方与力という職務上、兄の出仕は早く、屋敷へ下ってくるのは遅い。兄の健康が必ずしも良好ではないのを知っているだけに、東吾はこの兄の精勤ぶりは不安であった。  妻の香苗とは幼なじみで、恋女房でもある。  時としては、東吾の眼のやり場がなくなるほど仲のよい夫婦なのに、子供がなかった。 「俺の跡は、東吾に頼む」  家督は東吾にゆずりたいというのが兄の腹であった。ひそかに上役へ手をまわして、東吾を跡目にと工作したのも知らないわけではない。  決して、養子の話がなかったわけではないのに、まとまらなかったのは、兄が承知しなかった故である。  別に、東吾も他家へ養子に行きたいとは思っていなかった。行ってもよいと思ったのは、るいの家だったが、これは、東吾が兄嫁の父親と共に長崎へ行っている間に、るいの父が死に、るいが家督相続を放棄して、町家暮しをはじめてしまったから、自然、消滅した。  といって、神林の家をどうしても継ごうという野心はまるでない。もし、兄夫婦に子供が誕生すれば、無論、一生、世に出ることがなくてもかまわないと考えている。  生来の、のんきでものにこだわらない性格のためでもあり、それだけ、兄を信じているからでもあった。兄が弟思いであるように、弟も兄思いでは人後に落ちないところがある。 「本当に、お気をおつけになって下さいまし。初春だというのに、ろくな噂をききませぬ故……」 「ろくな噂とは、なんですか、義姉《あね》上……」  香苗が夫をみ、兄が東吾を眺めた。 「向島のなんとやらいう寮の留守番の男が、殺されたそうだ。首をしめられて……昨夜のことらしいな」  とびつくような眼をした弟へ苦笑した。 「さっき、畝源三郎から使いが来た。お前が起きていないので俺がきいておいたが……」  東吾は立ち上った。 「源三郎の手伝いはよいが無茶はならぬぞ」  兄の声を背中にきいて、東吾は屋敷をとび出した。  喜助の船宿へ着いてみると、やはり畝源三郎は居た。 「ごらんになりますか」  待っていたように声をかけ、先に立って裏へまわった。  空地に藁《わら》むしろをかぶせた死体を、喜助の下っ引が三人で見張っている。 「凄い力でしょう。咽喉仏のあたり、骨が砕けているようです」  無残としかいいようのない殺しである。  殺されていたのは、いつか向島へ来た時、東吾も逢った男である。 「場所は……」 「寮の裏口を二、三歩出たところです」  これから、もう一度、現場に行くという。無論、東吾のためであった。  寮の裏口には喜助と町役人の姿がみえた。 「ここです、与七が倒れていたのが……」  血の跡とふみにじられた土のあたりを喜助が指した。  この間はしまっていた裏木戸があいていて、そこに四、五人の男が集っている。  下男のようなのが二人、別の二、三人は商家の手代《てだい》風である。 「昨夜のことを話してくれないか」  源三郎が声をかけ、裏木戸の中をのぞいた。  思いがけないことに、すぐ、木戸を入ったところに家があり、玄関と供待風の小部屋がみえる。  小部屋の格子を打った窓は裏木戸の正面に当った。  源三郎の問いに答えたのは下男のような風体の男であった。  昨夜、丑《うし》の刻(午前二時)近くになって、裏木戸のところで人の呼ぶ声がしたという。 「ちょうど、こいつとわしと与七とで酒を飲んで居りまして、まず与七が出て行きました。すぐ、ぎゃっというような声がしたので、わしとこいつがとび出してみると、与七が倒れていて……抱きおこして、ゆすぶってみたんですが……もう……」  医者を呼びに行ったが、もう手のほどこしようがないといわれた。喜助の耳に入ったのは医者からである。 「どうして、すぐお上《かみ》へ届けなかった」 「へえ、すっかり慌ててしまいまして……忠助さんにも叱られました」  忠助と呼ばれた手代らしいのが前へ出た。 「あいすみません。手前は、廻船問屋、苫屋《とまや》五兵衛の店の手代で忠助と申します。今朝になって、留守番の者が変事を知らせて参りましたので、とりあえずかけつけて参りましたが、お届けがまだと聞き、びっくり致しまして……」  苫屋がこの寮の持ち主だと申し立てる。 「はて、噂では蔵前の札差の持ち家で、銀座の何某《なにがし》が使っている旨、きいたが……」  源三郎はあくまでも鹿爪《しかつめ》らしい。 「いえ、そんなことはございません。手前どもの先代が建てまして……当代になりましてからは殆ど使って居りませんでしたが、苫屋の寮に間違いはございません」  手代の舌は流暢《りゆうちよう》であった。 「そっちの者に訊くが、与七の叫び声をきいた時、二人の者はどこにいたのか」  源三郎が不意に向き直り、下男二人がどぎまぎとうつむいた。 「ここの部屋に居りまして……」  供待の小部屋である。 「この窓はあいていたのか」 「へえ、与七が出て行く前に、ここをあけてのぞきましたので、そのまま……」 「与七の叫び声をきいて、すぐ、かけつけたんだろうな」 「へい」 「相手らしい者をみたのか」 「いえ、それが、誰も居りませんで……」 「後姿もみなかったのか」 「へえ」 「最初に、裏木戸の外で呼ぶ声がしたそうだな」 「へい」 「なんといって呼んだのだ」 「さあ……与七さんとか、おーいとか……」 「はっきり、そう聞えたのか、声におぼえはないのか」 「ございません。なにしろ、だいぶ飲んで居りましたので……」 「与七は、なにか、灯を持って出ただろうな」 「へえ、提灯《ちようちん》つけて……」 「与七が殺された時、その提灯は……」 「へえ、燃えていました。このあたりに、めらめらとまっ赤に燃えて」 「どこから、みえた」 「えっ、へえ、ここの窓から」  源三郎が、さりげなく東吾をみ、東吾はうなずいて、先に木戸を入った。 「念のためなかを改めたいが……」  忠助と名乗ったのが、如才なく進み出た。 「ご案内仕ります」  木はこんもりと茂っていてかなり広いが、建物は別々に三棟あるだけであった。  裏木戸に近い供待風の小部屋のみえた建物が一番大きく、納戸や台所の他に、部屋が四つほど、もう一棟は茶室で、これは四畳半に水屋だけ、二つの建物はかなり離れている。  もう一つは倉で、これも忠助があけてみせたが、家財や諸道具類が整然と積み重ねてあるだけで、どうといって不審なものはない。  ぐるっと一巡して、源三郎が先に裏木戸へまわろうとすると、 「それでは、恐れ入ります。表をあけましたので」  すっと近づいて、 「これは、おきよめでございます」  袂へ入れようとするのを、源三郎がさりげなくおさえた。こっちからみていると、なんでもなくみえるが、忠助の顔が蒼白になって脂汗をにじませている。  ぽんと手を放すと、忠助はよろめいて、その場所へ腰をついた。口もきけない。  その間に、源三郎と東吾は表から出た。すぐに、喜助が追って来て、源三郎になにかささやき、返事を聞いて又、ひき返して行く。 「食えねえな」  歩き出してから源三郎が八丁堀の口調で呟いた。 「なんだ」 「忠助っていう白鼠が、東吾さんのことを訊いたそうです」 「俺のこと……」 「同心見習といっておきましたよ」  声をたてずに、源三郎が笑った。笑いを止めると、 「黒い犬ですかねえ」 「おそらくは……源さんも気がついていたようだが、二人いた下男は下男じゃねえ、やくざか、無頼漢か、金で集めて来た用心棒だな」 「あの家は、普段、使っていないといっていましたが、そんなことはありません。第一、あの家には十人以上の人間が寝泊りしていたようですな。台所の鍋も釜も大きいし、よく使い込んでありましたよ」 「与七が殺された時も、小部屋にいたのは二人だけではないな」 「みていますね、黒い犬を……」 「みえないわけはない。窓はあいていたし、提灯が燃えている。しかし、八丁堀の旦那は流石《さすが》にきき上手だな。うまい具合につめて行くものだ」 「伊達や粋狂で、八丁堀の産湯《うぶゆ》をつかったわけじゃありません」  町奉行所の同心の殆どが世襲であった。一代限りというのは名目だけである。 「それにしても、驚いた。定廻りの旦那方の懐具合がいいわけだ。さっき、源さんが突っかえした金包、ざっとみて……」 「十両でしたな。十両は多すぎます。多すぎるところが、きな臭い感じがすると思いませんか」  船宿へ帰って待っていると、程なく、喜助が戻って来た。 「女中のことをきいて参りました。お千代っていうんだそうで……」 「逢ったのか」 「いえ、昨夜っから、又、居なくなっちまったんだそうで……」 「昨夜から……」 「始終なんだそうでございますよ。もう匙《さじ》を投げたと諦めているそうで……」 「可笑しいな」  東吾が舟へ移ってからいった。 「今度、逃げたのに探しもせず、諦めているくらいなら、何故、この前の夜、大さわぎをして探していたのだ」 「女をかくしましたね」 「どこへ……」 「それがわかれば苦労しません」  源三郎が笑った。 「それと、黒い犬もあいつらの手に落ちていませんね。ひょっとすると黒い犬が、女の居所をかぎ出すかも……」      四  もし、苫屋の寮から逃げ出した女中と黒い犬が、るいの「かわせみ」へ泊った男女だとすると、又、あの大男が東吾の推量通り、南蛮の黒ん坊だとしたら、いったい二人は今、どこにいるのかと思う。  女が苫屋の手で、どこかにかくされたとして、大男のほうは、どこか江戸の市中にひそみ、女を奪い返す機会をねらってでもいるのだろうか。少くとも、昨夜、苫屋の寮へ忍んで来て、与七を殺害したのが黒い犬だとしたら、彼の目的は女をとり返すことだったに違いない。  それにしても、もの凄い力だと思った。大の男の首の骨をねじ切っている。  南蛮人の黒ん坊と呼ばれる男達が、強い腕力を持っているという話は長崎でもきいた。普通の板戸など叩きこわしてしまうので、夜は足を鎖でつないでおくというのである。 「近頃、金座銀座の御用商人の招待が目立っているのですよ」  向島の帰り、源三郎が誘って蕎麦《そば》屋の二階で酒を飲んだ。この店の主人も、源三郎の配下の岡っ引である。  大体、岡っ引というのは、お上から表向きにお手当を頂戴していない。大抵が商売を持ち、町の諜報を集めて、同心の旦那の手先として活躍する。従って、岡っ引としての収入は、同心の旦那からの心づけぐらいだが、そこはよくしたもので縄張り中の裕福な商家からは、なにかことある時のために、必ず盆暮や、その時々につけ届けがあって、それが、けっこういい所得になっていた。 「この間の夜もそうですが、おえら方が続々と、やれ、連歌の会だ、能の催しだと、金銀為替御用聞や金座、銀座の主だった辺りの招きに応じて、お忍びで出かけられているようです」 「近い中に貨幣改鋳があるという話と結びつきそうだな」  通貨の改鋳があって、新しい金銀が発行されれば、それに伴ってうまい汁を吸う御用商人が出てくる。さしずめ、金座、銀座、金銀為替御用聞などが、直接、或いは間接に莫大な利得を独占することになる。  それらの大商人が、老中を招待してなにを企むのか。 「さぞかし、べら棒な賄賂が動いているのだろうな」 「十両の袖の下というわけには行きませんな」  源三郎が憮然《ぶぜん》とした。 「馬鹿な話だ。公然と袖の下を受取りに行くおえら方のために、八丁堀の旦那衆が夜っぴて、他所《よそ》ながらの御警固とは……」 「それも、町役人のお手当の中に入っているということですか」 「すまじきものは宮仕えか、世情不穏の折というに、おえらいさんは何を考えているのだ」  ここ数年、露国船がしばしば樺太を侵し、幕府は仙台、会津両藩に蝦夷地警備を命じている。  世の中が、かつてない大きな力で揺《ゆす》ぶられかけているのを、町奉行所の一同心も冷飯食いの次男坊でさえも気がついているのに、私腹をこやす一念しかない御用商人と、その手にあやされる幕閣の諸侯があることに、若い二人は立腹し、痛飲した。  東吾が酔って帰ると、珍しく、兄の通之進がもう戻っているという。 「お居間のほうでお待ちになって居られますから……」  用人にうながされて、東吾は赤い顔をもて余しながら座敷へ出た。  兄は妻の酌で飲んでいた。  兄にしては珍しいことである。 「久しぶりに一緒に飲もうと思っていたが、お前はもう酔いざめの水のほうがよさそうだな」  それでも、兄嫁が微笑しながら盃を運んでくれる。 「こうして飲むのは、東吾が長崎から帰って以来か」  昨年の冬発熱し、半月ほど病床に親しんで以来、酒を断っていた兄であった。もともと、好きではないらしいが、飲めば強く、決して色に出ない。 「兄上、御用商人という奴らが役人に賄《まいない》を贈るとしたら、どのようなものですか」  こういう席でいやな話はするまいと思いながら、東吾はつい、ぶちまけた。 「賄か……」  僅かに眼のうちを染めて、兄は笑っている。 「相手によろう。金の欲しい奴には金、地位の欲しい奴には地位、骨董を好むもの、また滅多に手に入らぬ異国の品……女子……」 「女……」 「義父上《ちちうえ》からうかがったが、長崎滞在中、阿蘭陀との混血の女をとりもってくれようといった奴がいたそうな」 「混血ですか」 「長崎には相当いるような。お前は抱いたか」 「いえ、丸山では随分と遊びましたが、そういう女とは……」  兄嫁がまじめな顔できいている。東吾は流石に赤くなった。 「それは惜しいことをしたな。そのような女には、江戸ではとても逢えまい。折角、長崎まで行きながら、東吾にも似合わぬ手落ちよ」 「では、義父上はどうなのですか」 「それは、香苗にきいてみよ」  兄嫁が赤くなった。 「義姉上……」 「存じません」  すまして、兄の盃へ酌をしている。嬲《なぶ》られたと漸く、気づいて、東吾は照れかくしに、長崎でおぼえた俗謡を歌い出した。  翌日、東吾は宵の中から、「かわせみ」へ出かけてその話をした。  ちょうど、宿屋のいそがしい時刻なのに、るいはさっさと自分の部屋へ戻って来て、東吾の酒の相手をしている。 「もしかしたら、こないだの女の人、長崎から連れて来られた阿蘭陀さんのあいのこさんじゃありませんか」  流石に、鬼同心の娘で、るいはぴんときたらしい。 「俺もそれを考えている。苫屋といえば幕府の御用を承る廻船問屋だ。長崎から上方へ、上方から江戸へ、船にかくして連れてくることが出来る」 「黒ん坊さんはなんのためです」 「物珍しさを満足させるためか」  舶来の鳥や動物と同じ扱いを、奴隷である彼らが受けるのは不思議ではなかった。 「そんな、ひどいこと……人間にかわりはないんでしょう」  るいは眉を寄せた。 「でも、苫屋はどうしてそんな危いことを……」  国の禁制を犯して異国人を江戸に入れたのである。発覚すれば、ただではすまない。 「依頼人はおそらく苫屋と親しい金座、銀座あたりの者ではないか。俺の当《あて》推量だが……」  あの夜、たしか金座、銀座の招待に幕閣の誰かが小梅の寮へお忍びで出かけた筈である。  混血女と黒ん坊の逃亡は、それにつながりがあるのではないかと東吾は考えていた。  麻生源右衛門が長崎で混血の女を賄にされかかったという話から思いついたことである。 「るい……」  二人っきりの部屋をいいことに、東吾は大胆にるいを抱き寄せた。るいは眼を閉じて、東吾に全身をゆだねている。 「あの二人……他人ではなかったな」 「どうしておわかりになりましたの」  東吾の胸に顔をよせて、るいは辛うじて答えた。 「部屋へ入った時、匂いがした……」  二人の脱出を知って、るいと二人、二階の部屋へ上った時のことである。 「あれは男と女の……」 「いや」  るいが身をよじらせて、袂で東吾の口を封じた。 「お前、感じなかったか」 「いやですったら……」  赤くなったところをみると、るいもわかっていたらしい。  かんざしを宿賃において逃げ出す束の間を、黒人の大男と混血の女は、おたがいの愛を慌《あわただ》しくたしかめ合ったに違いない。 「恋人なんでしょうか」  どこでどうして愛し合うようになったのか、ともあれ、混血の女と奴隷の黒人と、薄倖の者同士、いつの間にか心が結ばれ合ったのは、容易に理解出来る。 「どこでどうしているんでしょう。かわいそうな人たち……」  東吾に抱かれたまま、るいがしんみりと呟いた。  その夜は堂々と、るいの部屋に泊って翌日、東吾はるいを連れて浅草の観音様へ詣でた。 「いいんですか。もし誰かにみられたら……」  何度も同じことをくり返しながら、るいはいそいそと仕度をし、東吾の背後に小さくなっておまいりをすませた。 「いいじゃないか、誰がみようと、他人じゃないんだ」  るいを抱く度に、るいに対する愛着が深まって行くような東吾のこの頃であった。最初の中は、一カ月に一、二度の逢瀬《おうせ》だったのに、今は毎日でも、るいの肌が恋しくなる。  仲見世で、るいの買い物につき合って、茶店で甘酒を飲んだ。  買い物の包を胸に抱いて、るいは放心したような眼をして鳩をみつめている。 「女房になれよ」  そっと耳にささやくと、びくっとるいの体がふるえた。 「駄目。あなたはお兄さまの跡をおとりになる方ですもの」 「与力の女房にゃなりたくないのか」  うつむいているるいの胸の中が、東吾には苛立たしい。 「俺がかわせみの亭主になればいいのか」 「出来ません、そんなこと」  るいが立った。 「帰りましょう。今にも雪になりそう……」 「かわせみ」まで戻ってくると、本当に雪になった。  川っぷちに小さな天神様の祠《ほこら》がある。子供がよってたかってさわいでいた。  ものもらいが祠の縁の下にひそんでいるのだと、しきりに小石をなげ込んだりしている。 「お宮のお供え物が毎日、ぬすまれるんだって……」  るいが東吾をみた。子供達をかきわけて縁の下をのぞいてみると、大きな男がうずくまっている。  神主には、どうも屋敷の奉公人で、気が可笑しくなって逃げ出したのに似ているようだからと、金を包み、子供達には、るいがこれも小銭を与えて追い払った。  人がいると出て来ないし、凶暴なところもあるのでというと、神主はふるえ上って社務所へ閉じこもった。 「おい、出て来ないか、もう誰もいないよ」 「出ていらっしゃい。あたしはあなたが泊った宿の者ですよ。決して悪いようにはしない。早くしないと、又、人が来るから……」  東吾とるいと交替に呼びかけると、言葉がわかったのか、おずおずと縁の下から這い出して来た。  まぎれもなく、例の大男である。  とりあえず、東吾の羽織を脱いで頭からかぶせ、夜にまぎれるようにして、「かわせみ」の裏庭から座敷へ入れた。  嘉助とお吉だけを呼んで、大体の話をし、嘉助はすぐに畝源三郎を呼びに走った。  るいはお吉に手伝わせて、大男を風呂に入れた。  どこをどう逃げ廻っていたのか、なにしろ汚れ放題で寒さに歯の根をふるわせている。  やがて、るいだけが戻って来て可笑しそうに告げた。 「お吉がね、洗っても洗っても落ちない、ものすごい日の焼け方だって驚いてるんです」  それでも、小ざっぱりした嘉助の着物を着せられて出て来た大男は、容貌も整っていて柔和な相をしている。  日本語はたどたどしいが話せて、いくらか持っていた警戒心も、るいやお吉の行き届いた親切に、すっかり解けてしまったらしい。 「日本の御飯で大丈夫でしょうか」  るいが心配しながら用意した飯も、もの凄い食欲でみるみる平げる。  名前はハンフウキと名乗った。年は二十五。五年前に阿蘭陀船で長崎へ連れて来られたという。  推量通り、彼と一緒だった女は阿蘭陀人との混血で、丸山で阿蘭陀行をしていた千代菊という遊女だった。  彼女がハンフウキの主人である阿蘭陀の可比丹《カピタン》の日本人妻として阿蘭陀屋敷に通ってくる中に、いつとはなく奴隷のハンフウキと惹かれ合うようになったらしい。  が、手を握り合ったこともなかった二人が偶然、日本の商人の手で別々に買いとられ、江戸行の船に乗せられた時、ハンフウキの千代菊に対する恋情は奔流のように突走った。  彼らは本能的に、江戸に着けば、やがて千代菊が誰かの玩具にされることを察していた。  江戸の向島の寮へ軟禁されて二日目、遂にハンフウキは格子窓を叩きこわし、千代菊と共に、寮から脱走した。 「それが、あの晩だったのね」  千代菊とハンフウキにとって、あれが初夜であった。二人は死ぬつもりで、ここを出て品川へ行く途中、探しまわっていた苫屋の若い衆に発見された。千代菊は連れ去られ、ハンフウキは川にとび込んで逃げた。 「馬鹿な人達……あの時、ここを出て行かなけりゃ……折角、想いがかなったっていうのに……」  るいが泣き、ハンフウキも泣いていた。彼の場合、生まれてはじめて他人に泣いてもらったことが、余程の感動だったらしい。泣いている大男の顔はよくみると、まだどこかに幼さの残っているあどけないものであった。  使いをやったのに、畝源三郎はなかなか来なかった。  疲れ切っているハンフウキをとりあえず、空いていた客間に寝かせた。  千代菊の行方をたずねて、夜中歩きまわり、昼は社や寺の縁の下にかくれて、心の安まる時もなかったという。 「死んでも、千代菊さん、探します、千代菊さん……」  布団へ入っても泣きじゃくっていたハンフウキが、やがて寝息をたてはじめてから、るいが居間に戻ってくると、ちょうど、畝源三郎が入って来るところであった。  迎えに行った嘉助とは一緒ではなく、彼は彼で、東吾を探して、ここへ訪ねて来たものだ。 「女の居場所がわかりました……」  いきなり告げた。  大川が海に流れ込む河口の近くに、銀座、大黒屋長左衛門の別宅がある。 「明日、雪見の会が催されることになっています」  折柄、降りしきる雪をみての俄かな発案という。 「雪はつけ足し、いや口実だ。女は今しがた運ばれて行く」  蔵前の札差、守田屋小右衛門の別宅が、つい眼と鼻の先の中洲《なかす》にある。そこに千代菊はかくしてあったらしい。  夜の中に、千代菊の身柄を海のみえる大黒屋の別邸へ運び込み、明日の客のもてなしに使う心づもりとみえる。 「どうする……」  畝源三郎は途方に暮れていた。  これは、南北の奉行にそれだけの決心と実力がありさえすれば、大捕物になるべき筋のものであった。  悪徳商人が天下の法を犯し、異国人を江戸に入れ、あまつさえ、私欲のための饗応に使おうとしているのであった。  だが、悪徳商人の饗応を受けようとしている相手は幕閣の大物である。事件は闇から闇へ葬られる危険がある。奉行所が動くかどうか、心もとない。  第一、一同心の力では、たとい、現場にふみ込んで、証拠を握ったところで、隆車《りゆうしや》にむかう蟷螂《とうろう》の斧であった。  死を覚悟してやってのけるにしても、犬死であった。それがわかっていて、源三郎と東吾も腹の底からこみ上げてくる怒りを、どうしようもない。 「お願い……」  いきなり、るいが東吾にすがりついた。 「やめて下さい。あたし……千代菊さんにはすまないけれど……二度と……大事な人を失いたくないんです」  源三郎が、はっと眼を伏せ、沈痛な表情になった。 「るい、なんのことだ」  東吾が、るいの体をひきはなそうとしても、るいは強い力でしがみついて、全身をふるわせた。 「父が失脚したのは……それなんです」  るいの父は、長いこと、銀座、金座の商人の不正摘発に挑んでいたという。 「結局、それが父の命とりになりました。今の世の中は、長いものには巻かれなけりゃ生きて行けないんです……」  失いたくないとるいは慟哭《どうこく》した。 「どんな身勝手か……自分勝手かわかります。自分さえよければ人様はどうなってもよい……そんな卑しい根性が情ないと思うんです。でも、犬死はいや……もう犬死はいやなんです……」  源三郎が顔をくしゃくしゃにした。 「どこか、間違っています。こんな馬鹿なことが……このまま、あってよいものなんでしょうか」  不意に、廊下を足音が走って来た。 「お嬢さん……いないんですよ、ハンフウキさんがいないんですよ」  東吾が太刀を掴んで立ち上った。  大川ぞいの道は、雪が白く舞っていた。風が強くなってまともでは眼もあけられないくらいであった。  東吾も源三郎も必死で走り続けていた。間違いなく自分達の前に、この道を千代菊を乗せた駕籠《かご》が走り、ハンフウキが走っている筈であった。  ハンフウキに追いつき、なんにせよ、千代菊だけを奪い取ろうと東吾は考えていた。その先を思案する暇はない。  だが、半刻近く走り続けて、二人が見たのは雪の大地を染めているおびただしい血と虫の息になっている数人の男達であった。  ひっくり返っている駕籠には、無論、千代菊はいない。  足跡に血がまじって前方に続いている。  東吾と源三郎は、それを追った。  遥かに人影を認めたのは、夜が明けかけた品川の浜であった。  行く手に海が、いくらか小降りになった雪のむこうにみえる。  たまりかねて、東吾が呼んだ。源三郎も叫ぶ。  浜辺に大きな男が立ち止った。背に千代菊らしい女をおぶっている。  ハンフウキが、東吾へむかって手をあげた。なにか叫んだようだが、これはききとれない。  声をあげたのは、次の瞬間、ハンフウキが海へむかって突進して行ったからである。  冬の海の、雪の中である。  狂気の沙汰であった。  東吾が走り、源三郎も走った。  が、二人がみたものは、荒らくれた波の彼方を沖へ向って泳いで行くハンフウキであった。背に千代菊が帯で結びつけられてでもいるのだろうか、二つの頭が波間にみえつかくれつする。  ハンフウキが如何に強靭《きようじん》な生命力を持っていたとしても、この雪の海を小半刻と泳ぎ続けることは不可能であった。  だが、ハンフウキは泳いでいた。波にもてあそばれながら、必死に泳ぎ続けている。  感動が激しく東吾を襲った。  愛する女を背負って、ハンフウキはまっしぐらに泳いでいる。その海の果てには、彼の母国が横たわっているに違いなかった。少くとも、泳いでいるハンフウキの瞼には、くっきりと緑の美しい故郷の山河が浮んでいるに相違ない。  源三郎が声をあげた。  暗い海上に、ハンフウキの姿は、もうなかった。 [#改ページ]   花《はな》 冷《び》 え      一  夕方から、大川端の「かわせみ」という宿の、るいの部屋で飲んでいて、神林東吾は、いつの間にか睡《ねむ》っていたらしい。 「本当に図々しいっていうのか、恥知らずっていうのか、若いくせにどれくらい面の皮が厚いかわかりゃしませんよ。つい三日前に、あれだけいってやったのに……」  この家の女中頭のお吉の声が障子越しにきこえて、東吾は思わず体を起した。  なんとなく自分のことをいわれたような気がして柄にもなく耳をすます。 「そんなに頭ごなしに腹を立てたって仕様がないじゃないの。先様はなんていってもお客様なんだから、筋道をたてておことわり申さなくちゃ……」  年上の女中頭をなだめて、るいが部屋を出て行く気配がする。  東吾は立ち上った。着流しに、るいが仕立ててくれた派手な縞物の半纏をひっかけているところは、どうみても八丁堀の吟味方与力を兄に持つ男にはみえない。この恰好《かつこう》を、もし、兄の通之進がみたら、なんというだろうと、東吾はいささか後めたかった。  手水《ちようず》をすませて帰りがけ、宿の帳場をのぞいてみた。  宿の入口の土間に若い女がしょんぼりと立っている。地味な身なりは商家の娘のようであった。  上りがまちにるいがすわって、きびきびした調子で応対している。 「あいにくではございますが、今夜のところは、すっかり部屋がふさがって居りまして、お宿致しかねます。まことに申しわけございませんが……」  言葉は穏やかだが、声の底にぴしっとしたものがあって、客の女は返す言葉もなかったらしい。肩を落して出て行くのがみえた。  一足先に居間へ戻っていると、るいが足音を忍ばせて入って来た。 「あら、おめざめですか」  いそいそと傍へ来る。 「たいした貫禄だな」 「なにがですよ」 「るいも、すっかりかわせみの女主人が板についたってことさ」  るいのいれた茶を旨そうに飲んだ。 「今夜、そんなに客が入っているのか」  それほど大きな宿ではなかった。全部の部屋を使っても、十組ほどの客しか泊れない。  もともと、八丁堀の同心の娘だったから、いくら、るいが町家暮しになじんだとしても、まだ、どこかに気ばったものが残っているらしく、客は常連か知人の紹介が多かった。  ふりでやってくるのはぼつぼつである。 「実は一部屋、あいてるんです……」 「約束があるのか」 「いいえ」  るいが笑った。化粧っ気がないようで、さりげなく紅白粉《べにおしろい》をよそおっている。殊に東吾の訪ねて来た日には、花が咲いたようになるるいであった。他人でなくなってから、るいが日一日と開花して行くのが、東吾の眼にも鮮やかであった。 「あの娘、どうしてことわったんだ。女一人だからか、それとも……」  ふりでとび込んでくる客の人相風体を一瞥して泊めるか泊めないか咄嗟に判断するのも、宿屋商売の技能であった。 「女一人じゃないんですよ」 「一人じゃない……」 「外に男が待ってるんです」  火の番の拍子木の音が通って行った。外は風が強い。 「どうして一緒に入って来ないんだ」  普通、宿の交渉などは男がするものと東吾は考えている。 「きまりが悪いんでしょう、きっと……」 「きまりが悪い……」  いよいよわからなかった。 「男の人、毎度、違うんですよ。女の人はいつも同じ……」  眼を伏せて、るいは話した。ざっくばらんに話しているようで、やはり、肝腎のところにくると物堅い武家育ちの生地が出て、なんとなく口ごもる。 「お嬢さん、よろしゅうございますか」  障子の外からお吉が声をかけた。東吾のために夜食の膳を運んで来たものだ。 「なんなんだ、さっきの女……」  お吉へ鉾先をむけると、こっちはすぐ乗って来た。 「結局、春をひさぐっていうんですか、男をひっかけて来て、うちへ泊るんですよ」  眉《まゆ》をしかめてみせるのは、これも、もともと八丁堀育ちで、色事の話にはあまり粋なほうではないからだ。 「商売女か……」  いわゆる吉原や岡場所のようなところではなく、かくれ売春がめっきり流行っているという話は東吾もきいていたが、まさか、るいの「かわせみ」がその舞台にされるとは思いもよらなかった。 「最初は気がつかなかったんです。そんなふうな女にゃみえませんでしょう。お一人かと思ってお宿をお引受けしたら、後から男が入って来て……その時も、ちょっと変だなとは思ったんですよ。でも、お嬢さんが、好いた同士の媾曳《あいびき》なら、あんまり野暮はいわないようにっておっしゃるから……」  すると、二日ほどして、又、女が来た。 「てっきり、この前の男が一緒と思いますでしょう。そしたら入って来たのが違う男だったんで、ぴんと来たんです」  三度目に来た時は、お吉が応対している中に、番頭の嘉助が外へまわって男をみて来た。今度も別人である。 「で、おことわりしたんですよ。勿論、部屋がないってことでしたけれども、相手には遠まわしに、わかるようにいってやったんです。うちはそういう宿じゃありませんからって」  お吉は憤慨していた。「かわせみ」が売春宿にされたのが、余程、忌々《いまいま》しいらしい。 「赤くなってうつむいてたから、わかったとばかり思ってたら、性こりもなく、今日、又、来たんです……」 「素人娘のようだったな」  遠くから、ちらとみただけである。 「あたしもお嬢さんもそう思ったんですけど、番頭さんは水商売の女だって……」  番頭の嘉助は、むかし、るいの父親が八丁堀で鬼同心といわれていた時代に奉公していた小者である。 「そういわれてみると、素人にしては粋なところがあったかも知れないな」  お吉が出て行ってから、東吾は箸をとった。 「随分、お気になさるんですね」  るいが睨んだ。 「夜の御膳もあがらないで、よくねむっていらっしゃいましたよ。余っ程、夜更かしがお続きなんだろうって、お吉がいっていました」 「馬鹿……」  東吾は飯に湯をかけて、さらさらと流し込んだ。 「るいに焼餅をやかれるようなことをしていたかどうか、もうすぐ証拠をみせてやるさ」  るいは真赤になって頬をおさえ、東吾は照れかくしに湯づけを大袈裟にかき込んだ。      二  むかし、湯島聖堂で同門だった男が役目で大坂へ発つことになり、その別れの会が深川の尾花屋で催されたのは、二月ももう数日で終りという日であった。  その頃の深川は、大方の妓楼や料理屋が庭へ流れをひき入れて、船を横づけにして登楼するのを趣向としていた。  集ったのは、いずれも気のおけない悪友ばかり、殆どが御家人で役づきだが、中には八丁堀の定廻り同心をしている畝源三郎のような変り型もまじっている。  同じ深川でも大新地、石場、櫓下などは岡場所として、吉原より規模は小さいが実質上の遊廓であった。その中で仲町は芸妓の数も多く、それとても、いわゆる二枚証文が多く、客にのぞまれれば色を売るのが常識のようになっていた。もっとも、中には芸一本の妓もいて、それが辰巳芸者の気っぷのようにもてはやされたりもした。  尾花屋の座敷から海がよく見える。昼だと沖を行く白帆や陽の光る蒼海原が果てしなく見渡せるそうだが、夜は波の音と潮の香と、やがて上る月が御馳走であった。  仲間の中にこの土地に顔のきく遊び好きがいたとみえて、座敷へ来た芸者達はいずれも美しい若い女で、芸も達者ぞろいであった。  その中に一人、小柄だがひどく三味線のうまい女がいる。どちらかというと陰気で目立たない器量だが、一つ一つの造作はまとまっていて、まず十人並以上に違いない。  どこかでみたような、と、東吾は盃の間にその妓へつい、視線がいった。 「おい、神林」  今夜のきりもりをしていた村尾というのが仲居を伴って近づいて来た。 「お好みがあったら、今の中にこいつに耳打ちしておいてくれ」  さりげなく耳許へささやく。宴果てて後、ここへ泊る場合の敵娼《あいかた》のことである。 「俺はいい」  東吾は苦笑した。つい先だって、るいに焼餅をやかれたばかりである。 「帰るのか、野暮をいうな」  東吾は眼をあげた。ちょうどその妓が三味線の絃を替えている。 「あれはなんという名だ」  村尾がそっちをみた。 「今、絃をとり替えている。三味線が達者だな」 「千代次さんですか」  仲居が答えた。紫のきものに麻の葉しぼりの襦袢、帯はひっかけに締めて両端を長く垂れる深川帯と呼ばれる結び方がよく似合う。  仲居が村尾にささやき、村尾がうなずいた。 「あれはちょっと悪い評判があるそうだ。それを承知ならといっているが……」 「いや、寝ようというのじゃない」  手をふって、東吾は仲居に盃をもたせ、酌をしてやった。 「古いのか、この土地で……」  仲居はうなずいた。 「十二、三からなんですよ、豆芸者っていいましてね。おっ母さんもむかし、この土地で稼いでいたんです」  大新地の妓楼にいたという。 「今は娘の軽子《かるこ》をしていますよ」  軽子というのは、後の箱屋であった。  深川には検番がなく、そのため芸妓の三味線の他に着がえの包も持って軽子が供をして歩く。  三尺もある三味線は桐の印籠蓋のある箱に収め、箱にはその持主の芸妓の名を朱漆で書いてある。それを紺の大風呂敷に包み、又、別に同じ風呂敷包の着がえを背にしょって、片手には提灯を下げて行くのが軽子の風俗であった。軽子は必ず女で、芸妓の実母がそれに当る例は少くない。  哀調を帯びた曲が流れて来た。千代次という芸者は陶然と曲に酔っているようである。三味線をひくこと以外になにも考えていない眼であった。 「芸はいいし、気だても大人しくっていいんですけどね」  仲居が歎かわしげに呟いて、盃を東吾へ返した。  尾花屋を出たのは遅かった。  例によって畝源三郎と二人連れであった。川風がまだ冷たいが酔いざましにはちょうどよい。 「誰かこの土地の芸者のことについてくわしい奴を知らないか」  歩きながら東吾が訊いた。 「千代次のことですね」  相変らず察しのいい地獄耳で、さっきの座敷で東吾と仲居との会話をちゃんときいていたらしい。 「変なことがあるんだ」  別にかくしておくことでもないので、東吾は、「かわせみ」へ客を連れ込む女のことを打ちあけた。 「千代次が、その女なんですか」 「わからんが、似ている。つくづく眺めてみたが間違いなく同一人と思えるんだ。ただし姿は商家の娘のように装っていたがね」 「女は衣装で化けますからね」 「そういうことが出来るのか。深川芸者が、よその土地でかくれて客をとるなんてことが……」 「表向きには出来ないでしょう。ああいう女は親元という抱え主がいますからね。もし、そんなことがばれたら、当然、制裁を受けます」 「そうだろうな」  岡場所のような女を金で縛って稼がせる世界では、女に対する制約は厳しい。芸者は遊女ほど籠の鳥ではないにしても、個人で勝手に色をひさぐなどとはとんでもないことに違いなかった。  源三郎が案内したのは蕎麦屋だった。  店はあまり大きくないが、釜場はかなり奥行きがあり、深夜だというのに、職人が威勢よく働いている。 「場所柄、出前が多いんです。今頃になると客も敵娼も腹が減る。女の部屋で食う蕎麦の味は、なかなか乙なものらしいですよ」  人間は堅物だが、流石《さすが》に定廻りで、源三郎は口だけはさばけたことをいって笑っている。  蕎麦屋の主人は長助《ちようすけ》といい、五十がらみの温厚な男だが、眼つきは鋭いものがある。正業は蕎麦屋で、別にこの辺を縄張りとする岡っ引としてお上御用を承っている。 「こりゃ、畝の旦那……」  小腰をかがめて釜場から出て来た長助は、源三郎がささやくと、複雑な眼になった。 「そういうお話でしたら、店先じゃなんでございます。散らかして居りますが、ちょいとお上り下さいませんか」  二階が長助の住いらしい。店のほうで悴《せがれ》が愛想よくお辞儀をし、女房が先に立って階段を上った。  座布団と煙草盆を出して下って行く女房と入れかわりに、長助が熱い蕎麦を自分で運んで来た。 「商売物でなんでございますが、尾花屋からのお帰りなら、ぼつぼつ腹のすく時刻じゃございませんか」  湯桶《ゆとう》に入れて来た蕎麦湯を茶碗に注いでから、 「千代次のことをおたずねと申しますと……」  穏やかに二人へ向き直った。 「あの女に悪い噂があるってのは、かくれて色を売ってるってことか」  ずばりと源三郎がいい、長助は肯定した。 「お耳に入りましたか」 「どうしてそんなことをしている。みたところ大人しそうな女だが……」 「結局は金でございますね」  土地で客をとった場合、稼ぎ高は抱え主と七分三分の割になる。 「あの妓の相場は一夜一分でございますから、祝儀や座敷のみいりなんかも含めて月に少くとも十両は稼ぎ出します。その中から、あの妓の手に入るのが、七分三分の分け方ですと、およそ三両、七両は抱え主のものになっちまいますんで……」  かくれての売春なら、仮に一回一分もらったとして丸々一分、自分のものになる。 「しかし、そりゃ御法度だろう」  抱えっ妓にそんな真似をさせて黙っている親元はない。 「普通なら、とんだことです」  半殺しのめに合わされて、生涯、只働きの罰を受けても不思議ではない。 「千代次の場合、みてみぬふりで……」  長助が声をひそめた。 「実はあの妓の母親のお勝っていいますのが、むかし、新地の五明楼でお職をはっていました。そいつが地廻りの親分で藤八っていうのとかかわりを持ちましてね。本当かどうかはわかりませんが、千代次っていうのも、そいつのたねじゃねえかっていわれてます」  千代次、本名はお千代だが、その下に弟がいて定吉という。 「こいつが、又、色の白い、柔弱な男なんですが、藤八のところの乾分《こぶん》気どりでして……」  もっとも、今の藤八はお勝と馴染んだ藤八の悴だが。 「死んだ親父の色女っていうんで、お勝母子には、まあ身内意識っていうんでしょうか、世間へ睨みをきかしているんです」  背後にそうしたやくざがついているので、千代次がかくれて客をとっているらしいという噂が立っても、誰かがどこかでもみ消してしまう。 「又、お袋のお勝ってのが凄い女でしてね。誰彼なしにかみつくし、かみついたらただじゃすまない女なんです」  千代次が売春をしているとしても、それは母親がやらせていることで、うっかりやかましいことをいおうものなら、忽ち、弟が暴力をふるってくるという悪循環で結局、さわらぬ神にたたりなしで落ちついてしまう。 「御承知でしょうが、岡場所とやくざのつながりはどこも根の深いものがございまして」  長助はぼんのくぼをかいた。 「世の中には、ひどい母親もいたもんだな。血をわけた娘に色を売らせて、いったいどういう量見なのか」  東吾は驚いていたが、 「色里には案外、多いことですよ。誰も好んで女郎になろうって女はいません。みんな食えなくなって、親兄弟のために身売りしてくるんです」  源三郎は淡々としていた。 「千代次の場合、ひもは母親と弟らしいですが、ああいう場所の女には情夫というひもが又、多いもんです。親兄弟のために身売りして、今度は惚れた男に骨までしゃぶられて捨てられる。そんな女も決して珍しくはないんです」  そんな話をして東吾と源三郎は外へ出た。 「噂をすれば、かげですねえ。ごらんなさいまし、あの母子ですよ」  長助が指し、二人がふりむいた。  道のすみを千代次が帰って行くところであった。荷を背負い、三味箱と提灯をもってついて行くのが母親である。娘が小柄なのに、母親は背が高く、手足の大きい骨ばった体格の女であった。年はまだ四十をすぎたばかりというのに二十歳も老《ふ》けてみえる。 「体をこわしているんですよ。もっとも、ああいうところで稼いだ女はみんな実際の年より、十も二十も老けちまいます。長生きもしねえようですね」  月が朧ろに、海の上に浮んでいた。      三  兄の通之進が風邪で熱を出し、二、三日、ひきこもったので、東吾も神妙に屋敷に釘づけになっていた。  幸い病状は大したこともなかったが、医師は無理をきびしくいましめた。 「ま、人間の年輪などというものは、庭の松の木とくらべても気が遠くなるほど短いものです。たまには義姉上とのんびりおすごしになるのも悪いことじゃありませんな」  熱が下ると、もう布団の上に起きて調べものをひろげた兄へ、東吾は茶化した。  次の間では、兄の嫁の香苗が雛の道具を出して飾りはじめている。 「少しはお気が晴れますでしょう」  緋毛氈の華やかな色彩と雛人形の雅びやかな雰囲気が病間に明るさを持ち込んだようでもある。 「そういえば、もう三日で桃の節句ですね」  飾りつけを手伝いながら、るいを想った。  まだ、るいが八丁堀同心の娘であった時分、雛を飾ったからみに来いといわれて出かけて行ったことがある。まだ、兄も妻帯して居ず、東吾にとって華やかな雛段は物珍しかった。  白酒とあられをご馳走になり、女とはこんなものを飲んだり食ったりして、どこがたのしいのかと生意気に思ったりしたものでもある。 「東吾は庄司どのの娘を知っていたな」  突然、兄に呼ばれて東吾はどきりとした。  るいの父親は庄司源右衛門といった。 「大川端町で宿屋をしているという。知っているであろうが……」  兄が書類から眼をはなさず話しかけているのが、せめてもであった。とても、まともには眼を合せられない。 「知っています」  低く応じた。その時は覚悟がきまっていて、るいとの関係を訊かれたら、正直に答えるつもりであった。 「時々、みまわってやってくれないか。どんなふうに暮しているか」  兄の言葉は予想外であった。 「庄司どのには、生前、まことにお世話になった。町へ下ったとしても、るいどのは一人娘、さぞ、庄司どのもあの世で案じて居ろう。御用繁多とて、つい、うかとすごして居ったが……どんな様子か、ついでの時でもよい、たずねてみてくれないか」  兄が皮肉をいっているのかと東吾は疑ったが、通之進の様子は自然で、作為を感じられる節《ふし》もない。 「承知しました」  兄がなにも気づいていないのだと、申しわけないが、るいのところへ行く大義名分がこれで出来たようなものである。 「近頃は岡場所がどこも華美になったらしいな」  話が飛躍した。東吾は唖然とした。 「お前、知らないか」 「はあ……」  苦笑して、東吾は上眼づかいに兄嫁をみた。  これはおっとりときこえないふりをして雛をかざっている。 「先日、聖堂の仲間の送別で、深川へ参りました」 「深川か……あそこは吉原なみの人気なそうな。妓の数も多い」 「そのようです」  脇の下に汗をかきそうであった。 「もともと、岡場所の女は親兄弟のために遊芸で身を助ける。春をひさぐのも、それ故にこそ、おおめにみられていたものだ。それが、身に綺羅を飾り、帯の結び方、髪の結い方にまで辰巳風なぞといいはやすのは、本末転倒、分にすぎたことというお上の声がある」  兄がお上というのが、老中幕閣の誰を指しているのか、およそ東吾にも見当がついた。  風紀紊乱の故をもって岡場所取締りにかなり強硬な意見を持っているらしいとは畝源三郎がかなり前から洩らしている。 「野暮なことですな」  話題が変ったので、東吾はいくらか気がらくになった。 「ぼろを下げていては、女に客が集る道理はありません。橋の下の夜鷹でさえも、色を売るためには化粧をし、身なりをとりつくろいます。少しでも美しく、少しでも豊かに装うことで同じ品物を高く売りつけようとするのは、当然の智恵というべきでしょう。もともと、男が金を出して買おうとする女の持物は一つしかありませんからね」  兄嫁が東吾に背をむけた。 「お上のやり方にけちをつけるつもりはありませんが、大体、女だけを取締ったってどうにもなりはしません。女を稼がせて、泡銭《あぶくぜに》を吸い上げている連中こそ取締られるべきですよ。なにしろ、七三ですからね」  東吾は得意だった。 「抱え主が七分、女が三分です。おまけにああいうところの女はひもがついていて、残りの三分もそっくり取り上げられてしまうんだそうですから、そういう女のたどりつく果ては随分、酷いもののようです」 「香苗……」  兄が呼んだ。 「東吾に外泊を禁ずる、そなた、厳重に見張るように……」 「兄上……」 「話の様子では、ちと夜遊びがすぎるようだ。部屋住みの身分で世間への聞えもある。当分は慎むように……」  きびしい語調の裏に、兄の笑いがかくれている。東吾は頭へ手をやり、神妙に手を突いた。  兄が出仕するのを待ちかねて、東吾はるいの許へとんで行った。 「お気の毒さま、それじゃさぞかし深川のお方が恋いこがれていらっしゃることでしょうね」  袂のかげでるいは東吾の腕をつねった。 「深川……?」 「村尾様がおっしゃいました。神林は女に眼をつけるのが早いって……大層、おきれいな方だそうではございませんか」 「村尾が来たのか」 「時々、おより下さいます」 「あいつも、るいに気があるのか」 「一度もお通しは致しません。いつも、お帳場でお茶だけお出し致して居ります」 「馬鹿……」  東吾はつい破顔した。むきになっているるいは子供の時の勝気な性格を思い出させて、東吾にはむしろほほえましい。 「あの女だったんだ。いつか、ここへ来た娘……ことわったじゃないか、ここは連れ込み宿じゃないと……」  るいの表情が動いた。 「嘘ばっかり……水商売の方がこんなところに来るもんですか」 「だから不思議に思って仲居にきいてみたんだ。それだけのことを村尾の奴……」 「お怒りになるのは身におぼえがあるからですわ」  その時、帳場のほうで凄い物音がした。戸障子の倒れる音と女中の悲鳴が筒抜ける。 「るい、お前は出るな」  東吾は太刀を掴んで帳場へ出た。  土間に若い男がひきすえられていた。肌ぬぎになった背中に、ちゃちな桜の彫物がある。ひきすえているのは番頭の嘉助で、素人がみると今にもはね返されそうにみえるが、余程、急所をひねって押えつけたらしく、若い男は青くなって脂汗を流している。 「なんだ、いったい……」  我ながら間の抜けた立場で東吾が訊いた。 「いやがらせでございます。どうせ、どこかの地廻りの下っ端でございましょう」  嘉助は微笑していた。女中どもの話によると、いきなり泊めてくれといって入って来て、返事も待たずに生きた蛇をふりまわしてあばれ出したという。成程、戸の外に叩きつけられた蛇が血に染まって動いている。 「どういうつもりで当家へ乱暴を働いたか、ちょっと自身番へ連れて行って吐かせて参りましょう」  嘉助はすっかり、昔の身分に戻ってしまったような言い方をして、ぐいと男をひきよせる。 「痛えっ、腕が折れる、助けてくれ」  男は意気地なく悲鳴をあげた。昼日中のこととて、店の外はもう人だかりがしている。 「嘉助、そんなに荒立てなくとも……」  るいが声をかけたが、 「いえ、こういうのは癖になりますから……」  嘉助はさっさと男をひきずって行ってしまった。 「すみません。あたしも行って来ます」  るいが身仕度をし、東吾がついて豊海橋ぎわの自身番へ追って行った。  たまたま、定廻りの畝源三郎が近くにいたというので自身番では、若い男が早速、一つ二つ、下っ引に痛めつけられたらしい。 「かわせみは客のより好みをするってきいたので、むかっ腹が立ってどなり込んだといっています。だいぶ、酔っていますが、生酔本性たがわずですな」  東吾とるいをみて、源三郎は笑い、土間にころがっている男の傍へ近づいた。 「手前《てめえ》、定吉だな」  八丁堀の旦那らしい巻き舌である。 「千代次の弟だろう。千代次が宿をことわられたのを遺恨に思って、いやがらせをしやがった……どうだ、図星だろう、手前の顔に書いてあるぜ」  定吉はちぢみ上った。声も出なくなっている。 「叩けばごまんと埃の出る奴だ。ちょっとききてえこともある。俺とつき合ってくれねえか」  源三郎が肩へ手をかけると、定吉は子供のようにわめき出した。 「俺あ知らねえ。悪いのはみんなおっ母だ。姉さんなんだよ」  自身番の入口に集っている野次馬をかきわけて女が駆け込んで来た。女の乗って来た町駕籠が橋の袂にいる。駕籠について来た若い男は、あっという間に姿をかくした。これが定吉の仲間で、母親に知らせに行き案内して来たものとみえる。 「お願いでございます。悴が酔ってとんだ御厄介をおかけ申しましたそうで、なにとぞお許し下さいまし」  土間にひれ伏したお勝は髪を乱し、呼吸をはずませていた。 「おっ母……」  定吉が呼び、お勝はかけよって息子を背にかばった。 「どうか、どうか、お目こぼしをお願い申します。この子は酒癖が悪く、酔った時は自分がなにをしているのかわからないんでございますよ、後生でございます、どうか……」  手を合せて、源三郎を伏し拝んだ。 「この子がこんなことになりましたのも、もとはといえばみんなあたしが悪いからで……あたしが娘を一人前の芸者にするためにかかりっきりで、この子の面倒をみなかったのが間違いでございますよ。ねえ、定吉、そうなんだろう」  待っていたように定吉が顔中を口にして喚き立てた。 「そうさ、お袋が姉さんばっかり可愛がるからよう、俺はさびしくって……そいでよ、こんなになっちまったんだよう」 「かわいそうに、おっ母が悪い、堪忍してくれよ。お前にゃ本当にすまないと思ってるんだよ」  母子は抱き合って声をあげて泣き、岡っ引は苦い顔をして源三郎をみた。 「旦那、どう致しましょう」  夕方、町廻りが終ってから、源三郎は「かわせみ」へやって来た。東吾はるいの亭主のような顔をして長火鉢のわきに陣どっている。 「どうも、ああいう手合は面倒ですな」  結局、定吉はきつく叱りおく、ということで母親にあずけた形になったという。仮にしょっぴいたところで、酔ってあばれたというだけでは、入牢《じゆろう》の上、吟味というわけには行かない。 「千代次って女のほうはどうなんだ。かくれて色を売ってるのはお上の法に触れるんじゃないかな」 「それも証拠があればのことですな」  源三郎が眉をしかめる。 「金を払って、あの女とかくれ遊びをしたという男が証人として出てくればのことですが、まず、これは出ますまい」  世間体もあることだし、かくれて女を買ったとお上に名乗り出るわけがない。 「うちはどうなんです。うちはあの人が男と泊ったのを知ってますよ」  酒を運んで来たお吉が口をとがらせる。 「金をお客から受取ったのをみていますか」  源三郎が盃を受けた。 「みていなければ、女は好いた男と媾曳をしただけといい抜けます。惚れた同士がかくれて逢ったのを、一々、とがめだてするほどお上は野暮じゃありませんからね」  東吾はるいを眺めた。るいは赤くなってうつむいている。 「源さん、その話はよしにしよう。どうもあっちこっちにさわりがありそうだ」  それで源三郎も気がつき、お吉は慌てて台所へひっこんだ。 「それにしても奇妙なことをいっていたな。お袋が娘を一人前の芸者にするためにかかりっきりで、弟のほうをかまってやれなかったからぐれたとかなんとか……」  東吾がいうと、源三郎もうなずいた。 「あの話は深川では誰もが知っているそうです。たしかにあのお勝って女は千代次ばかりをかわいがって、子供の時から三味線や芸事を習わせたり、身なりも分不相応に飾りたててやったくせに、定吉のほうは放りっぱなしで、赤ん坊の時は始終、垂れ流しの中に乳もろくにやらないで、おいといたそうですし、少し大きくなってからも、垢じみた着たきり雀で、腹をすかしていたようです」 「なんで、そんな差別をしたんです。どっちもお腹を痛めた子なんでしょう」  るいが口をはさんだ。女だけにそういう話には黙っていられないとみえる。 「知らない人は定吉を継《まま》っ子かと思うらしいが、どっちもお勝の本当の子だそうです。ただし千代次のほうは子供の時から器量よしで気だてのよい子だったが、定吉は乱暴で、どうにも可愛気のない子だったとはいいますがね」 「そりゃ世間様のいうことで、生みの母親にとっちゃ器量も気だても我が子なら、なんだってよくみえる。それが本当なんじゃありませんか」  るいの攻撃に源三郎は弱り切っている。 「しかし、数ある子の中にゃ、虫の好くのも好かないのもあるんじゃないかな」  東吾が助け舟を出したが、るいは負けなかった。 「母親の気持なんて男の人にゃわかりゃしませんよ。どっちの子だってかわいいんです。だからお勝って人、泣いてあやまってたじゃないですか。息子のために土下座して……かわいくなかったら、とってもあんなこと出来やしませんて……」  男二人はいいまかされて、黙々と酒を飲んだ。  外泊は禁ずと兄にいいわたされていたのもどこ吹く風で、東吾はるいの部屋へ泊り、翌日は揃って出かけた。  るいがおまいりに行きたいといった為である。  行った先が富岡八幡の境内で、桜が三分咲きである。  社殿で長いことおまいりしてから、るいは安産のお守りをもらいに行くという。 「おい……そうなのか」  東吾がいくらか緊張して、るいの肩を掴んだ。 「なんです」  きりっとした紬《つむぎ》に帯をゆったり締めて、るいは小首をかしげてみせる。 「お前、まさか……」  他人でなくなって一年目であった。子供が出来たとしても不思議ではない。 「いやだ……」  耳朶《じだ》を染めて、るいは笑った。 「そうなら嬉しいんですけど、そうじゃありませんから、御安心なさいまし」 「馬鹿、俺はもしそうなら……」 「あたしじゃないんです。嘉助の娘がもうすぐ……」  老番頭の嘉助の娘が神田飯田町の木綿問屋へ嫁いでいて、それが、この五月に二度目のお産をするという。  東吾は拍子抜けがした。 「おどかすぜ、うちの奥方は……」  るいは笑って、社務所へ走って行く。そのあとから歩き出して、るいも東吾も足を止めた。  社務所から白い布の包を抱えて、拝殿へ行く女がいる。  縞の木綿物に洗い髪で、裾さばきが水商売の女であった。あの女、千代次にまぎれもない。  みていると、白い布を社前へ供え、合掌した。一心不乱に祈念している。 「あなた……」  そっと、るいが戻って来た。 「あれ、腹帯なんですよ。五月《いつつき》になったら締めるんです、戌《いぬ》の日に……」 「五月《いつつき》……」  そう思ってみるせいか、千代次の下腹部がどことなくふっくらしてみえる。桜の下を千代次は腹帯の包を抱いていそいそと帰って行った。      四  次に東吾が千代次をみたのは、それから半月後、夜釣の帰り道であった。  あいにくの不漁で空|魚籠《びく》を下げて大川端を戻ってくると提灯の火を消してしまった。  舌うちして火打石をとり出しながら、ふと岸辺に近く屋根船が止っているのに気がついた。船の中は灯が消えていて、人の気配がある。  これは男女の忍び逢いであった。  船宿から船を出させ、適当な岸につながせて、船頭には祝儀をやって一刻ほど暇つぶしをして来させる。あとは二人水入らずで、なんの気がねも遠慮もいらない。  東吾はそれほど物好きではないから、そうと気がついても別に盗みぎきするつもりはなかった。足が釘づけになったのは、いきなり女の泣き声が起ったからである。 「捨てないで……」  ひいと泣きながら、女が男にしがみついたらしく船が揺れ、男が女を叱りつけた。 「いやです、別れるなんて……」  女が叫び、男が制した。  こうなると、東吾としてもちょっと立ち去り難い。 「いい加減にしないか」  船の中で、男がいった。感情がむき出しになった冷たい声である。 「あんたが憎くて別れるわけじゃないが、あんな疫病神《やくびようがみ》がついていたんじゃたまりゃしない。うちは堅気の商人なんだ。あんなのとかかわりを持ったら、この先、店はどんなことになるか知れたもんじゃない。第一、その前にあたしが親に勘当されてしまいますよ」  とげとげした調子で男は続け、女はただ泣いていた。  声は低くなって、弟にはあたしから頼みますと、とぎれとぎれに女がいい、 「あてになるもんかね、あんな連中が……」  船の障子があいて、男が外へ出た。女がとりすがるのを突き放して岸へとび上る。 「待って……若旦那……」  千代次が必死で叫んだ。 「あたしは若旦那の子供を……」  岸の上で男がふりむいた。 「笑わせちゃいけないよ。お前の客は俺一人じゃないんだ……」  木かげに東吾が立っているのも気づかず男は提灯に火をつけ、そそくさと立ち去った。  船の中で、千代次の泣き声があんまり悲痛だったのと、月あかりに浮んだ千代次の立ち姿がひどく思いつめてみえたので、お節介とは思いながら東吾はその足で八丁堀の畝源三郎の屋敷へ寄って一部始終を報告した。 「よもやとは思うんだが、女があまり思いつめている。もしつまらぬことでも起ると不愍《ふびん》な気がしてね」  源三郎は了承した。すぐ若い者をやってここ数日、千代次の身辺を見張らせるといい、早速、深川へ使いを出した。 「東吾さんのみた男というのは、大方、浅草の紙問屋で木島屋という店の総領ですよ」  定廻りだけに、そういうことはもう耳に入っている。 「半年ほど前から、千代次に通いつめて、今じゃ千代次のほうがのぼせ上っているそうです」 「千代次はみごもっているらしい。そいつの子だろうが……」 「岡場所の女と本気で夫婦になろうと考える男はいませんよ。ないとはいえないが、まず当り前ではないと思ったほうが本当です」 「そんなことはあるまい。男と女のことだ、命がけで惚れれば……」 「そういうのがあれば忽ち芝居になります。それくらい珍しいということです」 「そうかな」  東吾は肩で息をした。 「まさか、東吾さん、あの女に惚れたわけじゃありますまいな」  冗談らしく、源三郎が東吾をみる。 「馬鹿をいえ。あんまり、めぐり合わせが重なるから、つい気になったまでだ」  憤然として、東吾は八丁堀をひきあげた。  翌々日の朝である。  定吉が殺されたという知らせを持って、源三郎の下っ引が東吾の許へとんで来た。  場所は水戸様の石置場だときいて、東吾はすぐ座敷を出た。下っ引が心得て案内に立つ。 「おい、見張りはつけておいただろうな」  石置場で源三郎をみつけると、東吾は走りよっていきなりいった。 「下手人は千代次じゃありません。千代次にはずっと見張りがつけてあります」  源三郎は苦笑いをしている。 「誰に殺されたんだ」 「それが、どうも、河豚《ふぐ》の毒じゃないかということで……」 「河豚……」 「今頃の河豚は毒が強いそうですな」  医者が岡っ引と近づいて来た。死因は河豚の中毒に間違いないという。  千代次の家は、石置場から近かった。  母親のお勝がやはり河豚に当ったというので大さわぎしている。  こっちも発見されたのは朝になってからで、昨夜、客と妓楼に泊った千代次が帰ってくると布団の中でお勝が半死半生で苦しんでいたという。食べた量が少く、苦しみもがいて吐いてしまったので、朝まで命をとりとめたが、もともと心臓が悪く、医者は首をかしげている有様だ。無論、お勝の意識はない。  河豚は間違いなく、お勝が料理をして定吉と二人で食べたものとわかった。  近所の魚屋がお勝に河豚を売り、お勝は昨夜、千代次を妓楼へ送り届けてから家へ帰り、待っていた定吉と晩飯を食べた。 「河豚は危いから、こっちで下ごしらえをしてやるっていったんですよ。そしたら、本職の板前が遊びにくるから、そいつにやらせるって……」  魚屋は寝ざめの悪い顔をしている。  千代次は母親が河豚を買ったことを知らなかった。 「昨日はおっ母さんが定吉に何度も頭を下げて頼んでくれたんです。木島屋の若旦那だけは、どうか銭もらいに行かないでくれって……」  定吉は千代次に惚れて通ってくる客を片っぱしからゆすっていたようであった。店へ押しかけて行っては、いやがらせをして、こづかいをねだる。 「おっ母さんもあたしも定吉にはすまないと思っていますから、どんなことがあっても諦めていたんです。あたしはいい思いをして、好きな芸事にも打ちこめたし、あたしみたいなものが辰巳の芸者になれたんだから。でも定吉はずっと一人ぼっちだし……でも、木島屋の若旦那だけは、あたし……」  千代次は両袖で自分の腹を包むようにした。そこには五カ月になる生命が宿っていることを思って、東吾は暗澹たる気分になった。  なんとも後味の悪いしこりを心に残して、東吾は源三郎を「かわせみ」へ伴って来た。  母親が定吉を殺すつもりで河豚を食べさせたと東吾も源三郎も考えている。  魚屋で河豚を買った時、本職の板前がくると嘘をついているのが、なによりの証拠であった。  娘が、はじめて男に惚れ、その男の子をみごもったと知った時、娘が男に捨てられながら、男を忘れかねているとわかった時、母親は追いつめられた。娘の幸せの障害になる息子をどうにかしなければならない。  どちらも自分の腹を痛めた子であった。  河豚を買い、息子を殺すために料理しながら、自分も毒を含んだ肝を口にしている母親の心情があわれだった。 「定吉は母親から銭をもらい、河豚で酒を飲んだ勢いで、どこかの賭場へでも行くつもりだったんでしょうな。水戸様の石置場まで来て、中毒のために倒れた……案外、母親が賭場へでも行けとすすめたのかも知れません。我が子が死ぬのを目前にみる気はしなかったんでしょう」  源三郎は、この男に似合わず暗い表情をした。 「どうするんだ。町方は……この事件を……」 「どうもしませんよ。母親が息子と河豚を食って当った。母親だって死にかけているんです……」  るいがおろおろと源三郎に訊いた。 「あの人、どうなるんです。千代次さん」  長火鉢の中で炭がはねた。 「一応、木島屋へは知らせたそうです。一切、かかわりはないという返事だといいますよ。女とはもう手が切れている……木島屋の悴には許嫁《いいなずけ》があって、近く式をあげるそうでしてね……」 「そんな……」  るいが眼を怒らせた。 「だって、千代次さんには子供が……」 「ああいうところの女は子供を産んでも、父親はないのが定法です。客は誰も父親になりたくはない。なるつもりもありませんよ」  東吾と二人、かなり飲んだのに、酔えない顔で源三郎は先に帰った。  帰りがけに低く、東吾へだけ告げた。 「近く、岡場所のお取締りがあるようです。だいぶ派手にやってますからね」 「泣くのは女だけじゃないのか。女をあやつって甘い汁を吸っている奴は、取締りの網にはかかるまい」 「なるべくそうならないようにと、我々は心がけていますが、八丁堀にもいろいろなものが居りますからね」  取締りとなる前に、岡場所からは然るべき筋の役人に金がまかれる。平生《へいぜい》から、そういう時のための役人にわたりをつけている彼らであった。役人は金のために、取締りの日を洩らし、彼らは網の目をくぐる。  立腹をどこかに押し殺して、源三郎は夜の中を歩み去った。 「どうなるんでしょう、千代次さん……」  二人だけの部屋で、るいが呟いた。 「どうなるんでしょう、生まれて来る赤ちゃんは……」  東吾は答えてやる言葉がなかった。ただ、るいの肩を強く抱いてやっただけである。  しずかな夜なのに、東吾の耳には三味線の音色がきこえるようであった。  深川の尾花屋で、無心に三味線をひいていた千代次という女。  女郎の娘にうまれた子であった。好きな芸に打ちこめ、芸者になってきれいな着物をきて腹一杯食べられて外見は辰巳の姐さんと呼ばれ、金持の客の相手をすることを出世と思い込んでいた娘であり、その母親であった。  その悲しさは、岡場所取締りを発令する幕閣の誰にもわかる筈がなかった。  桜はもう散りかけているというのに、夜は急に冷えた。 [#改ページ]   卯《う》の花匂《はなにお》う      一  神林東吾が、その夫婦に気がついたのは、昨年の夏頃からであった。  月の中、少くとも十日は狸穴《まみあな》の方月館という道場へ代稽古に出かけて行くのだが、その途中に石段の多い神社があった。  大体が、この辺りは土地の高低が激しく、坂の多い町並だが、その神社も小高いところにあって、石段はおよそ百段、まわりはこんもりした森になっていて、これからの季節は蝉《せみ》の声が終日、きこえる。  道場の稽古は朝からだが、正午すぎに集ってくる少年剣士達を連れて、東吾はよく、この神社の石段を上り下りして、足腰の鍛練をさせた。  その時刻がおよそきまっていて、いつも午《うま》の刻(午前十二時)から未《ひつじ》の刻(午後一時)の間になった。  神社の石段の途中で、よくその夫婦に出逢うのである。  東吾がその夫婦に心をとめたのは、二人の年齢の見当がつかなかったからである。  ちょっとみには老人のようであった。着ているものも地味なら、体つき、歩き方も六十歳ぐらいに感じさせる。が、よくよく注意してみると、肌の艶や、髪の具合など、まだ五十代ではないかと思わせるものもある。  もう一つ、この夫婦は仲がよかった。石段を上る時には、妻のほうが夫の手をひいて行く。そうするわけは、夫がいささか足が不自由なようであった。 「卒中をやったんだそうですよ。軽くすんだらしいんですがね」  道場の掃除や留守番に住み込んでいる善助というのが、東吾に答えた。  その夫婦をよく知っているというので訊いてみると、同じ狸穴で硯《すずり》や筆を商っている吉野屋というのの主人夫婦だという。 「いくつにみえます。若先生……」  善助が面白そうにいうのをみると、やはり、あの夫婦の年齢不明のようなところが、近所の話題になっているらしい。 「どうみたって、六十でしょう」 「もう少し、若いのではないか。主人のほうが五十七、八、女房は五十五、六……」 「二人とも四十代ですよ」  男が四十五で、女は四十になったばかりだといわれて、東吾は唖然とした。 「そうはみえないな。とても、四十ではないが……」 「みんな、そういってますよ。ですがね、七、八年、いや、六、七年前にもなりますかね。あの夫婦がこの土地へ来て店を出した頃は、二人ともずっと若くて……その当時では旦那のほうが四十前、お内儀《かみ》さんは三十を出たばっかりで、それが証拠には、何度も子供が出来ましてね……」  まあ、どっちかというと年をとってからの出産だから、重いのが普通なのだろうが、大変な難産で、その都度、赤ん坊が死んでいるのだと善助はいった。 「産婆じゃ手に負えねえっていうんで、医者を頼んで産ましてもらったりしたんですが、その子も一カ月もたたねえ中に死んじまいましてね……」  流産は何回しているか知らないが、産み月まで来て死なせた子だけでも三人はいるという。 「よくよく、子供に縁がない夫婦なんだろうな」  あまり実感のない話題なので、その時の東吾はそんな相槌しか打てなかった。 「一人も子はないのか」 「そうらしいです」  吉野屋の夫婦が急に老けたのも、この二、三年で、 「結局、気持が滅入《めい》っちゃったんですかね。子供が死ぬ度にお内儀さんのほうは三つ四つ年をとっちまったし、旦那のほうは昨年の秋に卒中をやってから、がくんと年寄になっちまったんですよ」  半年ほど寝込んで、春以来、足腰の運動のため、夫婦そろって神社の石段を上ったり下りたりする。 「ああいう病気をしたあとは、少しずつ、足ならしってのをやらなけりゃいけねえんだそうで……」  神社の石段のところで、必ずといってよいほど、その夫婦に出逢う理由が、それでわかった。 「店はどうなんだ。主人がそんなに長く寝込んで……大丈夫なのか」  東吾にしては珍しく、そんなところに気がまわったのも、それだけ、その夫婦に関心があったということなのだろう。 「硯とか、筆ってのは、お客も大体きまってるようですからねえ」  店には奉公人が二人ほどいて、病気になる前は主人の治兵衛というのが、近所の子供に習字を教えたりもしていたが、今は女房がかわっている。 「お内儀さんも大変きれいな字を書くそうで、この辺の娘っ子は随分と稽古に通っているようですよ」  善助にきいたその話を、東吾はたまたま、狸穴の帰りに遠まわりして寄った「かわせみ」の宿で、るいに話した。  大川端にある「かわせみ」という小さな宿屋の若い女主人が東吾の幼馴染であり、恋人でもある。 「羨しいような御夫婦じゃありませんか」  たまさかに来れば、必ず泊って行く東吾だから、るいは安心して酒の相手をしながらいった。 「そりゃ、子供さんのいないのは寂しいでしょうし、お気の毒だけれど、そうやって暮しには不自由もなし、御夫婦そろってお宮の石段を上り下りして歩く稽古をしてなさるなんて……どんなにいい御夫婦かと思いますよ。あたしも年をとったら、そういう御夫婦になってみたい……」 「俺はいやだね」  東吾は笑った。 「四十五で卒中だなんて、真っ平だ」 「そうじゃありませんて。卒中だの、子供さんをなくすのはいやですけれど、あたしはその御夫婦の仲のいいことをいってるんです」 「つまらねえことを羨しがるもんだな」  顔では笑っていたが、東吾にはるいの気持がわかっていた。他人でなくなって一年余り、惚れ合って、ずるずると夫婦同様になってはいるものの、晴れて夫婦になったわけではなし、おいそれとそうもなれない二人の仲であってみれば、つまらない市井の中年夫婦の話でも、つい、羨しいと本音が出てしまうのも無理からぬといえよう。 「ねえ、燕《つばめ》が巣を作ったんですよ、うちの軒下に……明日になったらみてごらんなさいまし……」  気がついたように、るいは自分から話を変えた。 「かわせみ」は繁昌しているようであった。  ぼつぼつ梅雨で江戸見物の客の足が途切れる季節だが、商用で江戸へ出て来た滞在の客が多いという。 「御常連が次々にお客様を紹介して下さるんです。ありがたいことですわ」  同心だった父親が死んでから、思うところがあって町へ出て、女手で宿屋商売をはじめたしっかり者だが、それでも馴れない商売には人にいえない苦労があるらしい。 「お嬢さん、ちょっと、すみません」  女中頭のお吉が酒の徳利を運んで来て、遠慮がちに呼んだ。東吾が来ている時のるいは、いくら忙しくても、滅多に帳場へ出て行かないし、お吉や奉公人達も、よくよくのことでないと、るいをあてにしないのが普通だった。 「例のお女中さんなんですけども、ちょっと、お嬢さんに……」  八丁堀時代から、るいの家に奉公していた女だから、お吉の采配で大方のことは片づく筈である。そのお吉が眉《まゆ》をよせてるいを呼んだので、東吾もちょっと気にかかった。  るいの居間にしているこの六畳と店の帳場とは中庭をはさんでコの字なりに向い合っている。  夏のことで、障子があけ放してあるから、東吾はなんとなく帳場のほうへ視線をむけた。  若い女が所在なげにすわっている。るいが近づくのをみると、緊張して丁寧に手を突いた。その作法が武家奉公をしている者の型であった。  るいとお吉と、その娘と三つ巴のようになってかなり長いこと話していたが、無論、声は東吾のところまで届かない。 「いったい、なんなんだ」  戻って来たるいにすぐ訊いた。 「お二階のちどりの間に泊っておいでのお客様のお女中さんなんですよ、おくみさんというんです」  女中を連れて泊っているというので、東吾はなんとなく武家の奥方を連想した。 「なにか、苦情か」 「いえ……お仕事を世話してもらえないかって……」 「仕事……?」 「お針仕事のようなものですよ」  東吾はあっけにとられた。 「お武家がなんでそんな……」 「お金に困ってじゃないんですって」  一年ぐらい長|逗留《とうりゆう》しても大丈夫なほどの金を、帳場へあずけているという。 「さし当ってお金に困るわけじゃないんですけどね。結局、そのお金を減らしたくないってことでしょうね」 「奥方が女中にそういったのか」 「奥方ってなんですか」  るいが妙な顔をした。 「女中なんだろう、今の女……主人と泊っているんじゃないのか」 「御主人とですよ。でも、御主人はなんにも知らないらしいし、お女中さんも御主人には内緒にしてくれって……」  るいはちょっと可笑《おか》しそうな顔をしたが、その時は東吾の誤解を訂正しなかった。 「女中の才覚なんだな」 「そのようですよ。御主人が若いからなんでしょうね」 「若い娘なのか、主人のほうも……」  くすりと笑って、るいはそれにも返事をしなかった。      二  東吾が自分の早合点に気がついたのは、翌朝、るいと一緒に玄関の軒下の燕の巣をみている時であった。 「お出かけでございますか」  お吉の声がして、若い男が玄関へ出て来た。  まだ前髪にしていても似合いそうな武士で、眼鼻立ちの上品な、そのかわり腰の大小が重そうにみえる体つきをしている。  東吾があっと思ったのは、お吉と一緒にその若侍を送って来たのが、昨夜の女中で、これは、まるでそこが武家屋敷の玄関でもあるかのように、優雅に手を突いていた。 「お気をつけて、お出かけ遊ばしませ」  うなずいて、若侍は外へ出た。手に笠を持っている。旅にでも出かけそうな足ごしらえは、江戸見物というには大袈裟すぎた。 「行ってらっしゃいまし」  東吾の脇から、るいが声をかけ、若者はそれにも軽く会釈をして大川端を歩み去った。 「あれが、主人か」  間違いに気づいて、東吾はるいの部屋へ戻るなりいった。 「るいも人が悪いな。それならそうと昨夜の中に教えてくれたらいい」  出窓に、るいが丹精したらしい朝顔がかなり伸びていた。  るいが答える前にお吉が入って来て風呂敷包をひろげた。 「これでよろしゅうございますか」  洗い張りをしたばかりの木綿物が裏地をそろえてたたんである。東吾も見おぼえのある、るいの着物だった。 「縫い直しで悪いけれど……そういって頼んでみておくれ」  お吉は心得て出て行った。 「お前の着物を縫わせるのか」 「仕事ぶりをみなければ……上手なら、いくらでも人様の縫いものをもらって来てあげられますけれど……いきなり最初から、そうも行かないでしょう」  この辺は商家が多いので、しっかりした仕事なら、いくらでも仕立物を頼む相手はあるだろうという。 「それにしても、変な客をしょい込んだな」  どういう目的で江戸へ出て来たのか。おくみという女中の言葉には、明らかに上方訛《かみがたなま》りがある。 「まさか、仕官の口を探しているのでもあるまいが……」 「人をさがしているようですよ」  戻ってきたお吉がいった。 「番頭さんは、ひょっとすると敵討ちじゃないかって……」 「敵討ち……」 「足ごしらえがものものしいし、あの眼つきはただごとじゃありませんて」 「いつから、ここに泊ってるんだ」 「今日で十日目になるんです」 「ちどりの間といったな」  東吾は二階の間取りを考えていた。 「あそこは確か、八畳ひと間だが……」  我ながら変なことを気にすると思いながら、つい言った。 「二人は、一つ部屋に寝てるのか」 「ええ、そうなんです。お布団は二組、敷いてますけど……」 「いい気なもんだな。お手つき女中を連れての敵討ちか」  案外、かけおち者かなんぞではないのかと東吾は笑った。 「親の許さぬ不義密通とか……」 「いいえ、そうじゃないんですよ」  お吉が断固としていった。 「あたし達も最初、そうかと思ったんですけども……そんな間柄じゃないんです」  二人の間に格別な関係はないといい切る。 「どうして、わかる」 「そりゃわかります。お布団を片づけるのは、あたし達ですから」 「お吉……」  るいが制し、お吉は気がついて早々に逃げ出した。  東吾が、るいの部屋へ泊って帰った翌日から、江戸は本格的な梅雨に入った。  連日、降ったりやんだりの陰気くさい日が続いて、いささかうんざりしているところへ、畝源三郎が訪ねて来た。  八丁堀の同心で定廻《じようまわ》りを役目としている。  東吾とは学問でも武道でも、常に同門の友人であった。吟味方与力を兄に持っている東吾へ、源三郎は友人でも、けじめのある話し方をする。  東吾が無鉄砲でのんきな性分なら、源三郎は律義でもの堅いという、性格も正反対の二人なのに、どういうわけか合い性がすこぶるいい。 「かわせみのことで、ちょっと……」  東吾にとって兄嫁に当る香苗が、自分で茶菓を運び、源三郎へ挨拶して去ると、あとは雨の音しか聞えない。 「昨夜、宿改めがありまして……」  形式化してしまったことだが、定期的に定廻りが宿屋を訪ねて、宿泊人をあらためることがある。  あらためるといっても、一々、役人が客に逢うわけではなく、宿帳をみて、宿の主人にあやしい者を泊めていないか訊ねるだけで、面倒を避けるために、宿のほうからは常々、定廻りや岡っ引のほうにつけ届けがしてあって、まず厄介はないように出来ていた。 「かわせみに泊っている進藤喜一郎という者、御存じですか」  名前におぼえはなかった。 「源さん……」  東吾は苦笑した。 「俺は、かわせみに聟《むこ》に入ったわけじゃないんだ。泊り客の名前までは知らないよ」  るいとの仲は、無論、源三郎には公然だが、商売に口を出しているとは思われたくない。 「女中を一人、連れていますが……」  源三郎はあくまでも真面目であった。 「ああ、敵討ちか……」  それで東吾も気がついた。 「そいつなら、みたよ。若くて柔弱な奴だ。あんな奴が本当に親の敵をねらっているとしたら、とんだ芝居の田宮坊太郎だが……」 「敵討ちは本当らしいんですよ」  職掌柄、一応、進藤喜一郎を訊問したという。 「相変らず、源さんは律義だな」 「外ならぬ、かわせみですからね。なにかあってからでは取り返しがつきません。実は、嘉助がどうも不審なので調べて欲しいといって来ましてね」  嘉助というのは、「かわせみ」の番頭であった。今でこそ穏やかな町人髷だが、八丁堀時代は腕ききの捕方で、凶悪犯をふるえ上らせた男である。それだけに人をみる眼もあるし、事件をかぎつける鼻もある。宿屋の番頭としてこれ以上の適任者はない。 「嘉助は気にしたのか」 「東吾さんは気にしなかったようですな」 「変な奴とは思ったよ。女中が変っている。惚れ合った同士でもないのに、針仕事までして、主人に忠義を尽そうという……」 「惚れ合っていないと、どうしてわかりますか」 「他人だそうだ。お吉がいったんだが……一つ部屋で暮して惚れ合った同士が他人というのは……」 「不自然ですか」  源三郎が珍しく味のある笑い方をした。 「人間、誰しも東吾さんとおるいさんのように、ざっくばらんには行きますまい」 「皮肉か、源さん……」 「いや、真面目な話です」  進藤喜一郎が、畝源三郎の訊問に答えた通りをいえば、彼の父親は禁裏に仕える御所役人だったという。 「進藤喜左衛門といいまして、身分は軽輩ですが、れっきとした者です」 「敵討ちというからには、父親が殺されたんだろうな」 「相手は、当時、京都町奉行所の配下であった男で、荒井清七という者だそうで……」  御所役人の進藤喜左衛門と京都町奉行所の配下、荒井清七が親しくなったのは、どちらも謡曲をたしなんだ故だという。 「七年前、荒井清七は進藤喜左衛門を打ち果し、喜左衛門の妻を奪って出奔しました」 「横恋慕か」  当時、喜一郎は十三歳で、親類縁者が集って、荒井清七の行方を調べたが、手がかりもなく、やがて進藤の家、つまり御所役人の株は親類が買い、その金で喜一郎は成人したというのだ。 「御所役人というのは、よくわかりませんが、数は限られていますし、なかなか旨味のある役目といいますから、おそらく親類は喜一郎が若年なのを幸い、よってたかっていいようにしたものとみえます」  喜一郎は二十歳になった時、荒井清七が江戸にいるという風説をたよりに家を出て、敵討ちの旅をはるばる江戸へやって来た。 「あの女中はなんだ。おくみとかいったが……」 「進藤家に十四の年から奉公していたそうです。親許は大津のほうだそうですが、そこへ帰りもせず、ずっと喜一郎の身のまわりの世話をして来て、今度の旅も自分からのぞんで供について来たといっています」  年は喜一郎より二つ上で、なかなか気の勝った娘だという。 「喜一郎に内緒で一日中、針仕事をしていますよ。腕はいいそうで……」  実は、と源三郎はいくらかいいにくそうにした。 「そういう厄介な客なので、あまり長逗留させないほうがいいと嘉助に申したのですが、どうも、おるいさんが親身になって世話を焼いているようで……」  あまり、巻き込まれないように、それとなく東吾のほうから注意してくれないかと、源三郎はいった。 「この一件、私も調べている最中なのですが、どうも進藤喜一郎の立場が悪いのです」  一つには敵討ちの許し状を持っていない。 「何故なんだ。父親が殺されているのに……」 「そのことですが……京都町奉行所では、ここ数年、御所役人と禁裏御用商人との間の不正を探索中ときいて居ます」  荒井清七というのは、京都町奉行所の配下で、進藤喜左衛門に接近したのも、いわば密偵としての目的だったのではないかといわれ、そのことがこの事件を複雑にしたようであった。 「荒井清七をあまり追いつめると、かえって御所役人の不正を暴露されるのではないかという不安が御所の中にあって、いってみれば、さわらぬ神にたたりなし、なまじ、敵討ちなどといい出して、藪を突ついて蛇を出したくない気持があったと思われますな」  敵討ちの許し状がないと、もし、進藤喜一郎が荒井清七をみつけ出して討ったとしても私闘になってしまうし、そうなったところで、御所役人の株を売ってしまった喜一郎には帰って行く家もない。  畝源三郎が忠告するのは、そのことで、あまり同情して深入りすると、かえってとんでもない面倒をしょい込みかねないという。 「るいって奴も、変に女長兵衛を気どることがあるからなあ」  苦笑して、東吾は友人の親切を謝した。      三  東吾がるいを呼び出したのは、大川端の船宿《ふなやど》の二階であった。  その日も朝からの雨降りで、大川は灰色にけむっている。 「畝さまがそんなことをおっしゃったんですか。お節介な人……」  思った通り、るいは歯牙にもかけなかった。  源三郎の忠告を簡単にお節介で片づけてしまう。 「第一、そんなひどいことってありますか。父親は殺されたのに、御所役人の不正がばれるといけないから敵討ちのお許しは出さない。家は親類がいいようにしてしまう。そんな勝手ってありますか」 「俺に文句をいっても仕方がない。源さんにしても、なにも、喜一郎主従をかわせみから追い出せといっているんじゃない。同情しすぎて、るいが困らないようにといってくれたまでだ」 「世の中っていやですねえ。みすみす気の毒な人だってわかっているのに、誰も力を貸してやらない。お役人までが……」 「るい……」  少しきびしい声で東吾が制した。 「お前も畝源三郎という男の気性を満更、知らないわけでもあるまい。源さんは源さんで、進藤喜一郎について出来るだけのことはしている筈だ。おそらく、荒井清七という男の行方について、源さんなりのやり方で追っていると俺は思う」 「敵を探して下さってるんですか」 「みつかるか、みつからんか、そいつはわからない。もし、みつかった時は、それなりに源さんの思慮分別があるだろう」  るいはしんとうつむいた。 「すみません。あたしが間違ってました。なんにも出来ない癖に、いっぱしの気になって」  しょんぼりしてしまったるいに、東吾は弱くなった。 「いいんだ。るいがしたことは間違っていない。源さんのいうのは、あくまでも老婆心なんだ」  その時、隣の部屋に人が案内されて来た。  隣といっても、間は襖だけである。 「それでは、船頭が帰りますまで、暫くお待ち下さいまし」  女中の声がして、そのまま梯子段を下りて行く。  東吾がるいと顔を見合せたのは、女中が去るのを待っていたように女の声が起ったからである。 「若旦那様……」  低く、思いつめたような女の声に、るいも東吾も聞きおぼえがあると思ったとたん、衣ずれの音がして、明らかに女が抱きついたような気配があった。  襖越しに荒い息づかいと体のぶつかり合う音がする。 「いけない……おくみ……いけないんだ」  あえぎながら、男の声が女を制止した。 「お前の気持はありがたい。わたしだって、お前がきらいなわけではない……だが、いけないんだ……」  かすれた声のまま、男が続け、女は声を殺して忍び泣いた。 「くみはどうなっても……たった一度、若旦那様に……」  思いつめた声ともみ合う気配がきこえて、 「おくみ、なにをする……」  喜一郎の絶叫で、東吾は遂に襖をあけた。  おくみという娘が剃刀《かみそり》で咽喉を突こうとし、喜一郎がそれを必死で押えつけようとしている光景が東吾とるいの眼に入った。  思いがけない東吾とるいの姿をみて、若い二人は石のようになった。  おくみの手から剃刀を叩き落し、るいをつけて階下へやってから、東吾は進藤喜一郎と向い合った。 「お恥かしい態をおみせ申し、なんとも面目がございません」  少年の面影の残っている喜一郎はそれだけいうのがせい一杯で、女のように耳朶《みみたぶ》を染めている。 「野暮なところへ踏み込んですまなかったが、どうも、きいていられなくてねえ」  東吾はざっくばらんに相手の中へふみ込んだ。 「あんた、あの女を嫌いなのかい」  思いつめていた娘が憐れであった。女のほうから体を投げ出すということが、おくみのような女の場合、どんなにせっぱつまったものか。 「むこうは、あんたに惚れて、これまで必死になって尽して来た。あんた、敵討ちのために、おくみさんの心を利用して来たのか」  喜一郎が顔をあげた。怒りが眼にあった。 「わたしは……くみが好きです。もし、妻を迎えるなら、くみしかないと思っています」 「それなら、どうして……」  晴れて祝言をするまでは、というような少年の潔癖だけとは思えなかった。 「くみが不愍だからです」  いくらか、気持を抑制したらしく、喜一郎はかすれた声のまま話した。 「手前は敵を持っています」 「それはきいた」 「親の敵を討つつもりが、いつ、相手に返り討ちにあうかも知れません」  腕に自信はないと、正直にいった。 「なにもかも御存じのようですから、つつまず申します」  敵は自分の母を奪ったと喜一郎はいった。 「母が死んでいれば別ですが、もしも、母が敵と一緒にいた場合……」  流石《さすが》に唇をゆがめ、苦しげな呼吸になった。 「母を刺して、自分も自害する所存です」  静かな声だけに、真実感があった。 「ですから……手前はくみを……くみと他人のままでありたいと思っています」  東吾は黙った。  若者のすがすがしさが胸にしみ通るようである。おそらく、進藤喜一郎は母親が敵の妻となっているに違いないと考えているようであった。口に出して説明はしないが、彼をして、そう予想させるだけの根拠があるものとみえた。  父を裏切って、他の男の許へ奔《はし》った母を殺して自分も死ぬ。  この若者はそれだけを思いつめている模様である。十三歳で或る日、突然、両親を失った少年の怒りと悲しみが東吾にはおよそ理解出来た。  おそらく、進藤喜一郎の生甲斐は母を殺して死ぬことにあった。そのためには、如何に愛していても、くみを抱くことは出来なかった。      四 「かわいそうな人達……」  東吾の話をきいて、るいはもらい泣きをした。  だが、泣いていられない事態が持ち上っていた。  進藤喜一郎が、どうしても、おくみと一緒に住めないといい出したからである。 「こうなった以上、くみと一つ部屋には泊れません」  蒼ざめて、喜一郎は、るいに暫くおくみをあずかってくれないかと懇願した。  自分は他に宿をみつけるという。 「そんなことをいったって、おくみさんが……」  しかし、おくみは諦めていた。 「あたしはいいんです。若旦那様のお気のすむように……」  肩を落した姿をみると、東吾もつい、義侠心を出すことになった。 「心配するな、喜一郎は俺があずかる」  その夜は辞退するのを無理に、八丁堀の兄の屋敷へ連れて行った。  兄嫁の香苗には、ざっとわけを話して東吾の部屋へ泊めた。  その夜から喜一郎は熱を出した。  翌朝、医者が来て、夏の風邪だという。別段、どうということはないが、三、四日は安静にして寝ている外はない。  おくみを呼ぶことも考えないではなかったが、東吾はるいと相談して呼ばなかった。  その結果、病人の面倒はすべて香苗の厄介になった。そうなると、いつまでも兄に喜一郎の素性をかくしてもおけない。  東吾の報告を兄の通之進は黙ってきいた。  別に弟のお節介を叱るふうもない。図に乗って、東吾は訊ねた。 「畝源三郎の話によりますと、喜一郎が敵討ちの許し状を得られなかったのは、御所役人の不正に起因しているそうですが、禁裏御用の商人と御所役人の不正というのは、いったい、どういうことなのでしょうか」 「京のことは、よくは知らぬが……」  通之進は、血の気の多そうな弟を眺めて苦笑した。 「京都町奉行所によって調べられた不正事件には、たしか禁裏より、さる寺へ寄進された御戸帳のことがあったが……」  その御用を承った商人と係の御所役人が共謀して、代銀百五十貫匁を、加筆して二百五十貫匁とし、差額の百貫匁を着服したものだという。 「そんなみえすいたからくりをやるのですか」  東吾はあっけにとられた。 「よくそんな単純な不正が発覚しないでいたものですな」 「ぐるだからな。おそらく、その係の役人が上下とも一つ穴のむじなだろう」  通之進が耳にした限りでも、御所役人の不正は底なし沼のように果てしがない。  進藤喜一郎の熱が下ったのが、三日目の夜である。 「病気が回復してからでよいが、あの男、狸穴の道場へおくがよい」  道場主である松浦方斎《まつうらほうさい》にはすでに畝源三郎を通して頼んであるという。 「敵を持つ身、剣の修業にも便利ではないかな」  喜一郎にその旨を話すと、無論、異存はない。 「狸穴へ行ってしまうと、大川端とは遠方すぎる。その前におくみさんに逢って行ってはどうか」  東吾がいったのは、熱にうかされた喜一郎が何度も、おくみの名を呼んだのを知っているからだったが、 「いや、別に用事もありませんので……」  かたくなに、喜一郎は首をふった。  中二日ほどおいて、東吾は喜一郎を連れて、八丁堀を出た。  前日までの雨が上って、太陽の明るい江戸の町はさわやかな気分が満ちている。  病後の喜一郎をいたわって、狸穴へ着いたのは正午前、道場には思いがけず畝源三郎が来ていた。  こっちに用があって、たまたま道場へ寄ったところ、 「東吾さんが進藤喜一郎をつれてくるときいたものですから……」  待っていたと説明する。 「若先生、……吉野屋の夫婦が捨て児を育てているのを御存じですか」  昼飯の時、善助が話した。 「この先のお宮の石段の下に捨て児があったんです。生まれて間もなくて、やせこけて、今にも死にそうな赤ん坊だったんですが、神さまが授けて下すったっていうんで……」  吉野屋夫婦は夢中になって育てているらしい。 「旦那は体がきかないし、それほど豊かな暮しでもないのに、捨て児なんぞ拾っちまって、どうするんだろうって、みんなあきれていますがね」  その尾について、東吾は源三郎にいつも石段のところですれ違う吉野屋夫婦のことを話した。 「仲のいい夫婦だが、なんとも暗いんだな。笑いとか楽しみをどこかにおき忘れてしまったような……子供が次々と死んでしまったということが原因だろうが……」  どこかに大変な重荷をいつも背負っているような夫婦の印象であった。幸せの気配も感じられなかったあの夫婦が、捨て児を育てることで僅かな明るさをみつけ出すかも知れない。 「その捨て児の赤ん坊、うまく育ってくれるといいが……」  赤の他人のことなのに、東吾はつい、いった。善助の話では、天気のよい日、吉野屋の夫婦はやせこけた赤ん坊を抱いて、神社の境内を散歩しているという。 「今日あたり、来ているかも知れませんな」  源三郎が、ひょいと口をはさんだ。  それがきっかけで、東吾は源三郎と例の神社まで出かけることになった。言葉の段どりからいうと源三郎が東吾を誘った形になったが、捨て児の赤ん坊を抱いて歩いている吉野屋の夫婦をみたいという気持が東吾にはあった。 「どうしたものかと迷っているんです」  歩き出して間もなく、源三郎がいった。  この男にしては珍しく屈託し切った表情になっている。 「なんのことだ……」  鳥の声がしきりにした。このあたり雑木林も畑も田もある。 「やはり、このままにしておくか、それとも喜一郎を連れて帰るか……」 「連れて帰る……」  東吾は解せないと眉をしかめた。 「どうして連れて帰るのだ。喜一郎をここへ連れて来たのは兄上の……」 「神林様には手前がお願い申したのです」 「源さんが……」 「そうです」 「どうして……」  源三郎の顔に陽《ひ》が当った。定廻りをまめにしているから、陽に焼けて黒い顔に、瞬間、翳《かげ》が走った。 「人間は神さまじゃありませんからね」  源三郎がなにをいおうとしているのか、東吾には見当がつきかねた。  畑を抜けると、もうそこが石段であった。  石段のわきに白い花がかたまって咲いている。これと同じ花が「かわせみ」の垣根の近くにあったと思い、東吾は足をとめた。かすかだが、花の香がした。  石段の上に人の影がみえた。下へおりてくるのではなくて、そのあたりをぶらぶらしているようである。  赤ん坊の泣き声がしたので、東吾はそっちをみた。吉野屋の女房のほうが、赤ん坊を抱いて石段の上であやしている。亭主のほうは近くの石に腰を下して、これも、おぼつかない口調で赤ん坊になにかいっているようであった。  半身不随の上に、言語障害も起しているらしい。夫婦とも四十代には到底、みえなかった。赤ん坊を抱いているのが、孫のお守りをしているようにみえる。  ただ、下から東吾が眺めた限りでも、夫婦の間になにがなしくつろいだものがあった。  暗さは相変らずだったが、体をこわばらせて生きているようだった夫婦に、かすかながら柔かな雰囲気がのぞいている。やはり、赤ん坊のせいだろうと思った。 「源さん……」  そのことを話そうとしてふりむいて、東吾は畑の方角に視線を据えた。  源三郎は東吾より早く、そのことに気づいて、そっちをみている。  畑の道を善助が先に立って、喜一郎を案内してくるのであった。  源三郎が棒を呑んだようになっていることに、東吾は気づいた。  善助がこっちをみて、先に走って来た。 「いやあ、こちらの若旦那が、やっぱり神社へ行ってみたいっておっしゃるもんだから、御案内して参りましたよ」  一人で道場にいるのが所在なかったふうである。  喜一郎はうすく汗をかいていた。 「まるで夏ですね」  そんな言い方をして石段の上をみる。ちょうど吉野屋の夫婦が石段を下りかけていた。 「あれですか、お話の吉野屋というのは……」  その声がきこえたとみえて、吉野屋の女房のほうが顔をあげ、こっちをみた。ぎくと体を固くしたのが東吾にわかった。  武士が三人、かたまっているのに驚いたのかと思ったが、吉野屋の女房の変化はそんなものではなかった。  はじめて、東吾は並んでいる喜一郎の異常に気がついた。  眼を疑うように、吉野屋をみつめていたが、或る瞬間から火を吹いたようになった。  石段をおよそ八十段へだてて、吉野屋の夫婦と進藤喜一郎が対峙している。  声は最初、吉野屋の女房の唇から出た。 「喜一郎ですね……」  喜一郎の肩がぴくんと慄《ふる》え、吉野屋の女房の背後にいた亭主が、ううっと言葉にならない声を発した。 「喜一郎……」  もう一度、呼び、吉野屋の女房がよろりと石段へ膝を突いた。  夢にも思わなかったことが、東吾の眼前で起りかけていた。  この、本当の年齢より二十歳も老けた吉野屋の夫婦が、進藤喜一郎の父を殺した男と、その男の妻となっている、喜一郎の母親とは想像もつかないことであった。 「喜一郎……」  三度、母が捨てた息子を呼んだ時、喜一郎が叫んだ。 「下りて来い。荒井清七……父の敵……」  抜刀した。  吉野屋の亭主がふらふらと中腰になった。おぼつかない足をふみしめるようにして石段をやっと一段下りる。 「待って……」  女房が立ち上った。両手に赤ん坊を抱いたまま、喜一郎へ手をのばした。 「殺すなら、母を斬って下され。清七どのは病人じゃ……足腰も立たぬ者を……悪いのはこの母……どうか、母を殺してたも」  吉野屋の亭主が女房の手を強くひいた。 「う……違う……か、かたきは……わし……」 「下りて来い」  喜一郎が足ずりした。眼が血走り、声が上ずっている。 「下りて来い、清七ッ」 「清七どのに罪はない……」  動こうとしても、動けない夫をかばうように、母親は息子の前に立ちはだかった。 「先に刀を抜いたのは、喜左衛門どの」 「嘘だ」 「いいえ、喜一郎……まことです」 「斬る……」  喜一郎が、それだけを叫んだ。 「下りて来いっ」  吉野屋の亭主が手をあげて、女房にすがった。 「わしを、あ、あそこへ……」  下りると手真似でいい、じっとみつめた女房がうなずいた。片手に赤ん坊を抱き直し、片手に夫を支えた。  すがり合い、助け合って一段、一段を下りてくる。  源三郎の手が、帯の十手を掴んでいる。東吾は息をのんだ。善助は腰が抜けたようになっている。  よたよたと夫婦は石段を下りた。少しも早く下へおりようとしている気配がはっきりうかがわれた。明らかに死にいそいでいる夫婦であった。  長い時間であった。  喜一郎は抜刀したまま、歩くことを忘れたように石段の下にいる。  あと十段という時、赤ん坊がわあっと泣き出した。  夫婦が顔を見合せた。ひたむきに石段を下りようとしていた動作が止り、女房が赤ん坊を、そっと石段のわきの草むらにおいた。  刹那、吉野屋の亭主が全身の力をふりしぼるようにして跳んだ。  いや、跳ぶというより、自分の体を横転させ、ごろごろと石段をころがり落したのであった。 「あなた……」  女房が叫び、石段を走った。  血と泥にまみれて、吉野屋治兵衛は石段の下にころがっていた。喜一郎は身動きもせず、その前を女房が走って、虫のようになった夫にすがりついた。  吉野屋治兵衛は覚悟をきめたように眼を閉じていた。起き上る力もない。それをみて、女房もすがりついたまま、眼を閉じた。  陽の光と、風の中で、誰もが動かない。  そのままの姿勢で、ふっと治兵衛が眼をあけた。すがりついている妻へ訊いた。 「花の……匂い……花の……」  女房が眼をあけた。石段の下の白い花をみる。 「卯の花ですよ」 「そうか……」  そのまま、夫婦とも眼を閉じた。  今にも殺されかかっている中で、身動きの出来ない夫が花の香に気づき、妻に問い、妻が答えたのが、奇妙なようで自然だった。  長い緊張の流れが、そこだけ穴があいたようである。  喜一郎の顔がくしゃくしゃにゆがんだ。  身をひるがえすように畑の道を走り出した。逃げるように一目散に遠ざかって行く。豆粒のようになって、みえなくなった時、源三郎が十手から手をはなした。 「どうやら、間違いらしいな」  手をのばして、治兵衛を助け起した。 「怪我はないか」  茫然としている女房へつけ加えた。 「赤ん坊が泣いてるぜ」      五  魂の抜けがらのようになっている喜一郎を連れて、東吾と源三郎は「かわせみ」へ帰って来た。 「源さん、仕組んだな」  喜一郎をおくみにあずけ、るいの部屋へ入ってから、東吾は友人を睨んだ。 「こうなるとは思いませんでした。こんなことになってもらいたいと願ってはいましたが……いや、やっぱり、こうなるとは思いませんでしたね。これで終ったとも思えませんが……」  気がついたように源三郎は汗を拭いた。 「八丁堀の智恵者は、案外、思い切ったことをやるものだな。一つ間違ったら、どうなったと思う……」 「だから、忠告したでしょう、巻き込まれると、とんだことになると……」  二階の様子を見に行ったるいが戻って来た。 「二人で抱き合って泣いてましたよ」  窓の近くにそっとすわった。 「喜一郎さんがね、やっぱり、花の香がすると思ってたんですって、敵を討って、母親を斬ろうという最中に……そしたら、相手もおっ母さんも花の匂いに気がついていた。同じ花の匂いをかいでいるんだなと思ったら、どうにもならなくなっちまったんですって、おくみさんに泣きながら話してましたよ」  源三郎が笑った。 「わたしは気がつかなかったんですよ。どこに花が咲いていたのか……香なんてちっとも匂いませんでした。それだけ、緊張していたんですかね」 「いったい、なんの花が咲いていたんですか。今時分……香りのする花なんて……」  咄嗟に花の名前が出なかった。東吾も源三郎も花に縁のある男ではない。 「どうなふうに賽《さい》の目が出ますか、お節介もここまでだと思いますので……」  源三郎は疲れた顔で帰って行った。  一夜あけて、早立ちの客が殆ど「かわせみ」を発ってしまってから、喜一郎とおくみが旅仕度をして下りて来た。 「長いこと、お世話になりましたが……」  これから京へ帰るという。 「京へお帰りなさるって……」  るいが不安な眼をした。京へ帰っても、喜一郎が相続する家はない。 「役人になるつもりはありません」  さっぱりと喜一郎が答えた。 「これの実家《さと》が大津から北に入ったところにございます。そこへ行ってなんとか……」  その山里は紙を漉《す》いているのだとおくみが言葉を添えた。 「若旦那様に、そんなお暮しが出来るかどうかわかりませんけれど……」  喜一郎が笑った。 「お前が出来ることぐらい、わたしだって出来るさ」  あずかっていた金を、るいは一文も手をつけずに二人へ返した。 「お二人への、せめてものはなむけに致しますよ」  辞退するのを、無理に納得させた。  昨日一日晴れただけで、今日は又、煙るような霧雨が降っている。 「今夜、なるべく早くお宿をおとりなさいまし」  笠を渡して、るいが意味ありげに微笑し、若い二人は顔を見合せて頬を染めた。  嘉助にも、お吉にも丁寧に礼をのべて、玄関を出て行く。 「あの二人、もう他人じゃないみたい」  そっと、るいが東吾にささやいた。 「お前、布団をみたのか」 「そんな……馬鹿ばっかし……」  るいが軽く東吾を叩いた。 「そんなものみなくたって、なんとなくわかりますよ」  傘をさして、外へ出た。 「燕の雛が顔出してますよ」  灰色の巣から黄色いくちばしが三つのぞいていた。  雨の中を親燕が餌を運ぶのに忙しい。 「おい、この花だよ」  気がついて、東吾はるいを垣根の外へ連れ出した。 「卯の花ですよ、これは……」 「こいつが咲いて、匂ったんだ……」  神社の石段の下に一群れ咲いていた野の花が、人の心のむきを変えた。 「人間なんて、弱いもんですね」  花に顔を近づけて、るいが呟いた。  あの時の進藤喜一郎の心の変化を弱いというのか、強いというべきか、東吾は花の香の中で考えていた。  雨が、少し、強くなった。  江戸は、やがて夏になる。 [#改ページ]   秋《あき》 の 蛍《ほたる》      一  夕方から、もの凄い雷雨になった。  稲妻がひっきりなしで、天の底が抜けたようなどしゃ降りである。  大川はあっという間に水かさを増し、「かわせみ」の宿の前の道も、ちょっとした川のように水が流れた。  幸い、満潮の時刻をはずれているので、これ以上、水位は上らないと思われたが、番頭の嘉助は若い者と川べりに立って警戒に当り、女中頭のお吉は大事な荷物を二階へ運び上げた。  陽が暮れても、雨はやまず、るいは心細くなった。今にも大川があふれて、「かわせみ」の宿を押し流すような気がする。  客は二組ほどあったのだが、これは万が一を考えて、女中をつけて日本橋の知り合いの宿屋へ移ってもらった。  それらが一段落すると、外はとっぷりと暮れて、雨の音と、まだ鳴り足りない雷がいくらか遠くなって聞えているだけで、「かわせみ」の家の中は、ひっそりしてしまった。  気丈なお吉は、嘉助と一緒に川っぷちへ出ているらしい。 「るい……おい……るいはいないのか」  闇の中に声がきこえて、るいは部屋をとび出した。  雨戸をぴったり閉めても、風が忍び込んで灯を消してしまうし、危いということもあって、廊下も部屋も殆ど灯を消してしまっている。  くぐり戸をあけると、風と一緒に神林東吾がとび込んで来た。雨仕度は厳重にしているが、全身、水びたしだ。 「来て下さったんですか」  こんな場合だけに、るいは忽ち泣き声になった。いきなり、しがみつくと、 「おい、濡れるぞ……」  それでも人のいないのを幸いに、東吾はしっかりと抱いてくれた。 「嘉助は……」 「川っぷちです、お吉も……」 「客は……」 「もう、日本橋へ避難してもらいました」 「手まわしはよいな」  るいは着がえさせたかったが、東吾はどうせ濡れついでだと、裏口から堤へ出て行った。  大声で嘉助に、なにかいっている。  夕立から嵐になったような雨の中を、八丁堀から駆けつけて来てくれた東吾の心が嬉しくて、るいはうっとりとなっていた。子供の時から、その人が好きで、他人でなくなってから一年余、気心は知り尽している筈なのに、やはり晴れて夫婦になったわけではない心もとなさが、どこかにある。それだけに、今夜のような場合、男の真実を確かめたようで力強かった。こんな時こそ、思いきり、東吾の胸にすがりついていたいのに、出て行ったきり、なかなか家の中へ入って来ないのが、るいには不満だった。  嘉助もお吉も、少しは気をきかせて、東吾を家の中へ入れてくれたらよさそうなものだと思ったりする。  それでも、るいは、まめまめしく、やがて濡れて戻ってくるに違いない東吾のために、下帯から浴衣までそろえて待っていた。  小半刻ほどして、雨は小降りになった。 「若先生がおいでになった時が、山でございましたよ。大川の表面がぐっと盛り上って来た感じで、こりゃあ、ひょっとするとおおごとになるかとびくびくしていましたが……」 「番頭さんも年ですよね。東吾様がおいでになったら、急に威勢がよくなって……」  そんな表現で、嘉助もお吉も、東吾が訪ねて来てくれたことを、るいのために喜んだ。  雨がこんなになる前に、沸かしておいた風呂へ入り、東吾が、こざっぱりと着がえ終った時である。  表戸が叩かれ、誰かが声をかけている。女の声のようであった。 「おたのみ申します……おたのみ……」  東吾とるいが耳をすませていると、お吉が出て行くようである。嘉助は東吾に続いて風呂へ入っている。 「どうしましょう。お嬢さん、お客なんですけれども……」  お吉が居間の外から訊いた。 「御老人と娘さんなんですよ」  るいがすぐ出て行った。  しばらくして、二階へ上る音がする。るいがお吉になにかいいつけて、居間へ戻って来た。 「お気の毒に、雨の中をずっと歩いて来たみたいですよ、お二人とも、ぐしょぬれで……」  かなり遠くから来たらしいと、るいはいった。 「どこかで雨宿りでもして来たらよさそうなものだな」 「旅のお人は勝手がわからないから……」  宿屋というのは可笑しなもので、客が一組入っただけで台所も風呂場もいきいきと動き出している。 「いいのか、手伝ってやらなくて……」  居間へすわって、東吾の酌をしているるいが笑った。 「出て行くと、お吉が邪魔っけだっていうんですもの」  外は、まだ風が鳴っていた。  翌日、東吾が八丁堀の兄の屋敷へ帰ってみると、庭に人が入っていた。  塀ぎわに樹齢五百年といわれる松がそびえていたのに、雷が落ちたという。昨夜、東吾が屋敷を抜け出したあとのことであった。  落雷は松の表面をくるくると螺旋《らせん》状に巻いて地中へもぐったとみえて、幹の皮が渦巻いて焼けていた。 「どっちみち、これは切らなけりゃなりません。見事な松なのに、惜しいことを致しました」  出入りの植木職の老人が、縁側に立っている兄の通之進に話している。  いささか、間が悪く、東吾は兄の背後へ近づいた。 「あなた、東吾様が……」  兄嫁の香苗が気がついて、通之進へ声をかけた。 「申しわけありません。ちょっと、大川端の知人の家を見舞いに行って居りまして……我が家に雷が落ちていようとは夢にも……」 「のんきな奴だな」  兄は笑っていた。 「黙って出かけるから、香苗が心配したぞ。どこかの部屋で落雷に驚いて目をまわしているのではないかと、屋敷中探し歩いた……」 「あなた……」  香苗が制し、 「庭で野良猫が目をまわしていたんですよ。死んでいるのかと思ったら、先程、正気づいて……」  猫でも気絶するのかと、女どもで大笑いしたという。 「運の悪いニャン公ですな」  用人の鈴木彦兵衛が、取り次いで来た。  家の庭に落雷があったというので、今朝から見舞客が多いらしい。 「東吾さん……」  兄夫婦が奥へ行くと、庭のすみで待っていた八丁堀同心、畝《うね》源三郎が近づいて来た。 「通之進様は、随分と心配されていましたぞ。昨夜は手前のところまでお使いがみえて、東吾さんが行っていないかと……」 「源さん、なんといったんだ」 「およそ、行く先はわかっていますから、大川端まで行ってみました」  誠実で愚直な友人は笑っている。 「源さん、昨夜、かわせみへ来たのか」 「もう雨が小やみになっていましたし、嘉助に確かめて、通之進様には、御案じなくと報告しておきました」 「どうして、あがって行ってくれなかったんだ」 「いや、役目柄、そうも行きません。それに、のこのこ上り込んでは、おるいさんに怨《うら》まれますからね」 「かわせみ」は幸い、水がつかなかったが、大川端では、あちこち浸水した家があり、町方は住民の避難やら救出やらで、けっこう夜があけるまでいそがしかったらしい。 「すまなかった。そんな時に迷惑をかけて」  東吾は頭を下げた。 「これで、当分、源さんには頭が上らなくなるな」  雲が切れて、真夏の太陽が、かっと照らして来た。  馬喰町一丁目の旅籠屋「ひさご屋」へ押込み強盗が入ったのは、その大夕立から三日目の夜半であった。  続いて、翌夜《あくるよ》は馬喰町三丁目の旅籠で「笹屋」。この時は逃げ出そうとした客の一人が斬り殺され、番頭が大怪我をしている。  翌晩が本所へとんで相生町の、これも旅籠で「菱《ひし》屋」。  次いで、深川の「梅田屋」、品川の「丁字屋」、再び、馬喰町二丁目の「藤屋」。  僅か半月ばかりの中に、連日連夜、町方を翻弄するような荒しぶりだ。  ねらわれるのはきまって旅籠屋で、抵抗する者、逃げる者は必ずといっていいほど殺害し、金目のものは、帳場は勿論、客の所持金まで洗いざらい奪い取って行くとあって、江戸中の宿屋稼業の者はふるえ上った。  この頃では、夏の夜だというのに、はやばやと大戸を下ろす店もふえ、客が手引をして強盗をひき込むのだという風聞のせいか、部屋があいているのに、客を泊めない旅籠もあらわれる始末で、旅人の迷惑はこの上もなかった。      二 「源さん、いってえ、どうなってるんだ。まだ、賊の見当もつかないのか」  このところ、夜昼なしに走りまわっているらしく、いくら訪ねて行っても逢えなかった畝源三郎と、たまたま、屋敷の前で出逢って、東吾は早速、自分の部屋へひっぱり込んだ。 「かわせみが御心配ですか」  疲労をつとめてみせまいと畝源三郎は笑ってみせたが、おそらく寝不足が続いているのだろう、どことなく生気がない。 「いや、あそこには嘉助がいることだし……」  今でこそ、律義な宿屋の番頭だが、二年前までは八丁堀でも腕ききの捕方である。 「嘉助一人では心もとないと思います。出来ることなら、東吾さんが泊り込んでいたほうが……」  まじめであった。 「そんなに手ごわい相手か」 「腕の立つのが三、四人はいるようです。昨夜も竪川《たてかわ》沿いの『吉田屋』という旅籠で、主人の弥七というのが斬られました」  表向きは宿屋だが、この主人は下っ引をつとめているという。 「手むかいをせず、賊の人相風体、出来れば、尾行をするように申し含めてあったのですが、手柄をあせったのでしょうか、たった今、現場をみて来ましたが、大変に馴れた手口です」  一突きで心の臓を刺しているという。 「旅籠ばかりをねらうというそうだが、同じ賊か」 「同じですな。最初は八、九人で一軒を襲っていたのが、近頃は二組に分れて、一夜に二軒を襲っています。人数が五人ほどに減っているようですから、これは間違いありません。それと、彼らの目的は金を強奪することより、誰かを探しているのではないかと思われます」 「探す……」 「宿帳が必ず奪われています。それと、泊り客を一人残らず、顔をあらためて行くそうです」 「押込みの尋ね人か」  余裕のない時なのに、うっかり冗談が出た。 「人を探すついでに、金を盗み、人を殺す、それも容赦なくです」 「わかったよ。源さん、軽口をきいている場合じゃなかった」 「かわせみには充分、気をつけて下さい。無論、我々も注意はしていますが……なにかあってからでは、とり返しがつきませんからね」  源三郎におどかされたのを大義名分に、雷以来、遠ざかっていた大川端へ東吾は出かけて行った。  ちょうど夕方で客の到着する時刻だから、「かわせみ」の表はなんとなく混雑している。裏からまわって、勝手知った廊下伝いに帳場のわきへ出た。中庭を間にはさんで、るいの居間がみえる。子供の声がきこえていた。  簾戸《すど》越しに、るいの居間に五つ六つの女の子がすわっているのがみえる。るいはその子の前で姉様人形を作っているらしい。 「おや、若先生……」  お吉が二階から下りて来た。客を案内して来たらしい。 「子供がいるじゃないか」  るいの部屋を指した。 「嘉助さんの孫なんですよ。おっ母さんが昨夜、二人目を安産しましてね。床あげまで、こちらであずかっているんです」  東吾をみつけて、嘉助も寄って来た。 「どうも、とんだ御厄介をかけて居ります」  東吾は微笑した。 「なあに、るいは子供好きだ。みたところ、いい友達が出来たような案配じゃないか」  旅籠荒しの押込みのことは、無論、嘉助もお吉も知っていた。 「うちへ入るくらいなら、それこそ、とんで火に入る夏の虫ですよ」  お吉は張り切っていたが、流石《さすが》に嘉助は慎重であった。 「何事があっても、一切、手出しはなさらないようお嬢さんにも申し上げてございます。尾《つ》けることなら、手前は本職でございますし、外へ出れば、なんとでもなります。うっかり、店の中で血を流されますと、客商売でございますから……」  るいは、又、暢気《のんき》であった。 「うちへ入るわけがありませんよ。こんなちっぽけな宿屋じゃ、第一、お金もありませんしね」  嘉助の孫はお三代といった。大人しく、利発な子で、なかなかの器量よしであった。 「嘉助の歿《なくな》ったおかみさんにそっくりですって……よかったわね。おじいちゃんに似なくって……」  るいは、はしゃいでいた。一人娘で兄弟がなかったせいもある。本当なら、るいの年齢としては、これくらいの子供があっても可笑しくはないのだと、東吾は思った。  自分とるいの間に子供が出来るかも知れないなどとは、平素、全く考えてもみなかったのに、こうして間近に母親のようなそぶりで幼い娘の相手をしているるいをみると、東吾はなんとなく照れくさかった。 「さあさあ、お三代ちゃんはむこうでおじいちゃんとごはんですよ」  酒の仕度をして来たお吉が、お三代を連れて行った。  夏の宵は、まだ、ほの明るく、あけはなした縁から川風が吹き込んでくる。  膳の上にも、夏の味が並んでいた。茄子《なす》の焼いたのに、胡麻味噌をたっぷりかけたのだの、冷や奴には鰹節とおろした生姜《しようが》が風味を添えている。 「お屋敷に雷が落ちたそうですのね。東吾様があれっきりお出でになれないのは、そのせいだってお吉が申して居りましたの」  鮎の骨を抜きながら、るいが、恥じらって言った。東吾の外泊がばれたことを悟っている。 「おとがめはございませんでした」  心配そうに訊かれて、東吾は苦笑した。 「源さんが、うまく、ごま化しておいてくれたんだ」 「よかった」  ほっとしているのが不愍で、つい言った。 「いっそ、ばれたほうが、けりがついていいと思うんだ。いつまで、内緒にしておくのも、どうかな」  るいの返事はなかった。 「ばれたら、るいは困るのか」  うつむいたるいが、不意にいった。 「蛍……」  暗くなった庭のあたりに、蛍が光っている。 「るい……」 「あら、そこにも……」  東吾は諦めた。話がそこへ移ると、るいは決して本心を口に出さない。その中、赤ん坊でも出来れば、どうにかなるだろうと東吾は考えた。どっちにしても、るいと別れる気は全くないし、添いとげるためには武士を捨てることがあっても止むを得ないときめている。 「かわせみの客は大丈夫かな」  話題を変えた。 「源さんの話では、今度の押込みは、前もって仲間をその宿へ泊らせて、手引をしているのではないかという風説があるそうだ」 「でしたら、大丈夫、今夜のお客様はみんなおなじみばかりですし、はじめてのお客様は……ほら、この前、東吾様がおいでになった夜の……」  雨にぬれてとび込んで来た老人と娘の客を、東吾は思い出した。 「まだ、いるのか」 「あのあと、大変だったんです」  ちょうど、東吾が帰って間もなく、娘が階下へ来た。老人が昨夜、怪我をして、それが熱を発したので、当分、滞在したいという。それは、かまわなかったが、お吉が上って行ってみると、大層な熱である。医者を呼ぼうとすると、娘が断った。老人が医者ぎらいだし、自分が手当の方法を知っているからと拒む。 「仕方がありませんから、氷を取りよせるやら、薬を買いに行くやら……」  熱は二日ばかりで下ったが、老人はまだ歩けないらしい。 「どこを怪我したのだ」 「足ですって……」 「捻挫《ねんざ》か」 「いえ……」  ちょっと、るいは声をひそめた。 「お吉が、娘さん……お糸さんっていうんですけどね、布を洗っているのをみたんですって……大変な血の痕が……」 「斬られたのか」 「多分……でも、お糸さんは犬に噛まれたんだって……」 「犬か……」 「でも、あやしい人のようじゃありませんよ。お年寄は人の好さそうな感じだし、娘さんはそれは親孝行でね。熱の高い間は、それこそ帯もとかないで看病して……そりゃ、よく行き届くんですよ。第一、あの親子はずっとうちに泊っているんですもの、他の旅籠へ行って押込みの手引なんか出来るわけがありません」 「それはそうだな」  ほろ酔いで、東吾は庭下駄をはいた。 「かわせみ」の庭は、そのまま大川端へ続いている。部屋から大川が見渡せるのが、この宿の御馳走でもあった。  蛍は、よく光っていた。庭の小さな流れのふちにも、堤の草のかげにも。  東吾について、るいも出て来た。 「るい、動くなよ」  るいの髪に光っている蛍をみつけて、東吾が近づいた時、ふと、頭上で障子のしまる音がした。二階の部屋である。ちらと娘の白い顔をみたような気がして、東吾は訊ねた。 「ちどりの間です。お糸さんですよ」  るいが答えた時、大川を舟が下って来た。酒樽を積んでいるところをみると、どこかの酒問屋の持ち舟でもあろう。二艘が前後して、屈強な男が竿をさしている。舟足は早く、みるみる中に、夜に融《と》けて去った。      三  月が変っても、江戸の旅籠屋を襲う盗賊は捕えられなかった。  町奉行所では、夜廻りをふやし、自身番をかため、町木戸は必ず四ツに閉め、その後の通行はきびしく吟味するなど、警戒を厳重にしたが、そうした町方の警備をあざ笑うように、被害は数重なるばかりであった。  なにしろ、江戸は広い。旅籠の数も大中小とさまざまで、ちょっと手がつけられない。  第一、江戸の夜を荒す盗賊は、旅籠ばかりをねらう一味だけではなく、盗みや人殺しの事件は諸方に発生している。  それと、月が変ってからは、旅籠をねらう盗賊は連日ではなくなり、二日おき、三日おきになった。そのかわりのように、川筋を往来する荷舟が頻繁に海賊に襲われるという被害が目立ち出した。 「東吾、お前はこれをどう思う」  もっぱら、夜は「かわせみ」のるいの部屋へ泊って、夜明けに屋敷へ帰っていた東吾が、兄の居間へ行ってみると、そこに畝源三郎が来ていた。他に、同心が二人額を集めている。  通之進の膝の前には地図がひらいてあった。  江戸の町々の略図である。別に通之進は書きつけを手に持っていて、東吾にみせたのは、その綴じ込みのほうである。  日付の下に、その夜、盗賊の被害を受けた旅籠の名と住所が書き出されている。 「面白いことがある」  兄の手が、更にもう一枚の紙片をさし出した。 「これは、川筋を荒す盗賊の荷舟を襲った夜を書き出したものだ」  二枚をみくらべて、東吾もはっとした。  旅籠が襲われた日には、川舟の被害はなく、川舟が襲われた日には、旅籠は平穏であった。 「この海賊の一味には、前から手を焼いて居りました」  被害は、なんと十年以上も前からで、そもそもは行徳河岸の高瀬舟が襲われたのが最初であった。  もっとも、江戸に海賊が出没したのは、更に古く、捕えても捕えても、浜の真砂《まさご》の歌のように、あとを絶たない。  当時、江戸へ入ってくる諸国の産物は水路を通ってくるものが、かなり多かった。  いわゆる問屋の殆どは川や掘割に沿って倉を持ち、舟で運ばれてくる品物をそっくり倉へ荷揚げする店が少くない。  海賊がねらうのは、それらの荷舟だった。品物を強奪するのは鰹節とか、毛繻子《けじゆす》、藍玉のような高価なものに限り、又、荷を運んで仕切りの金を預って帰る舟を襲って、二百両、五百両の大金を奪って逃げる。  大抵は早舟を仕立てて、いきなり目的の舟に近づいて鉤縄《かぎなわ》をかけ、盗賊がとび乗って来て盗みを働く。  水の上だけに、町方も手が出しにくく、又、江戸の市中の入り組んだ水路が追跡を困難にしていた。  畝源三郎が目をつけた海賊は、水鳥の大三と呼ばれる首領を中心とするもので、手下はおよそ十数名、なかには浪人くずれもまじっている凶悪犯で、ここ五、六年はもっぱら江戸川から中川筋へ手をひろげ、更に近くは隅田川から深川の小名木川、本所の竪川筋、箱崎町、堀江町と魔手をのばして来ている。  その盗みぶりは大胆で、凶暴な上に、川にあかるく、荷舟の航路や潮の満干を知り尽しての犯行は、どうにも町方の手に負えなかったものだ。 「すると、源さんは、この水鳥の大三の一味が、旅籠荒しの凶賊だと目星をつけたのか」  東吾が膝をのり出すと、源三郎は、ぼんのくぼに手をやった。 「そう推量する理由の一つは、この旅籠を襲わぬ夜に、川筋を荒している賊の手口が、水鳥の大三の一味の今までの手口と酷似していること、又昨夜、襲われた日本橋の油問屋、三国屋の持ち舟の船頭は、以前、やはり行徳河岸で水鳥の大三一味に出逢ったことがあり、昨夜の盗賊の中に、間違いなく首領の水鳥の大三をみたと申し立てていることです」  更にもう一つ、これは下っ引が聞き込んで来たことだが、 「水鳥の大三一味には、最近、仲間割れがあったようです」 「仲間割れ……」 「理由はわかりかねますが、長七というのが娘を連れて一味を脱《ぬ》けたという話ですが」 「娘を連れて……」  ふと、東吾の心にひらめくものがあった。 「心当りがあるのか、東吾」  通之進が声をかける。 「源さん、その長七という男の人相、年恰好は……」 「中肉中背で、温厚そうな老人ということです。老人といっても、本当の年齢は五十六、七、髪が白いので六十二、三にはみえるそうで……もともとは行徳の船頭、どこでおぼえたのか吹き針をよくするそうで……」  東吾と畝源三郎は八丁堀をとび出した。あとの采配は通之進が取ることになっている。  とりあえず、「かわせみ」へかけつけてお糸という娘の父親が、海賊、水鳥の大三の手下の長七かどうかを改めねばならない。  だが、「かわせみ」の二階へかけ上って、ちどりの間の襖をあけると、部屋には誰もいなかった。 「しまった……」  気づいて逃げたのかと思うと、押入れをなかからゆすぶっている音がする。  油断なく近づいて、源三郎が開けると、ころがり出て来たのがお糸だった。両手両足を紐で結び合され、手拭で猿ぐつわまでされている。 「お父つぁんを助けて……」  口が自由になると、いきなり叫んですがりついた。 「お父つぁん、あたしのために、仲間を殺しに行ったんです……」  手足を縛って行ったのは、 「あたしがついて行くと思って……」  出かけたのは小半刻ほど前で、行く先は、 「深川の三角屋敷です……」 「三角屋敷……」 「仲間がいるんです、そこに……」 「水鳥の大三のかくれ家か」  源三郎にたたみ込まれて、お糸は蒼白になった。もはや、お糸の父親が長七であり、殺しに行った仲間というのが、水鳥の大三の一味であることはまぎれもない。  お吉が顔を出した。 「嘉助さんがいないんです。お三代ちゃんも……たしか、川っぷちで遊んでいたと思ったんですけれど……」  川へ落ちたのではないかと、女中達が総出で探していると、たまたま、いつも来る魚屋が乙女橋を渡って船番所のほうへ歩いて行くお三代をみたという。  すぐに女中の一人がそっちへ走り、お吉は嘉助に知らせようと戻って来てみると、その嘉助がいない。 「番頭さんは黙って出かける人じゃありませんし、お三代ちゃんも決して一人で遠くへ行く子じゃないんです……」  乙女橋は、豊海橋ともいい、そこから船番所のある道へむかうと、すぐ永代橋であった。永代橋を渡れば深川である。 「嘉助は、長七を尾けて行ったんだ。お三代は嘉助をみかけて、あとを追って行った。そう考えられないか、源さん……」      四  嘉助は、まっしぐらに長七のあとを追っていた。  かすかに右足はびっこをひいているのに、歩き方は早い。見失うまいと、嘉助は久しぶりに汗をかいた。まずいことに、孫娘のお三代を背にしょっているのである。  大雨の夜に泊めた時から、嘉助はその親娘を臭いと睨んでいた。長年、定廻りの旦那の小者をつとめていた勘である。殊に、最初、ちどりの間に宿帳を持って行った時、男のほうが、嘉助をみて、はっと顔をそむけたのを、さりげなく挨拶しながら、嘉助は眼のすみで見届けていた。相手は嘉助の顔を知っていた。「かわせみ」にとっては、はじめての客だから、もし、嘉助を知っているとしたら、八丁堀時代に違いない。しかも、嘉助はその男の顔に記憶がなかった。商売柄、一度、逢った相手の顔は滅多に忘れないのが、嘉助の自慢でもある。  こっちが知らなくて、むこうが知っている相手といえば、まず後暗いところのある人間と、嘉助はふんだ。  ちょっと気のきいた盗賊や悪党連中なら、まず自分達にかかわりのある八丁堀の同心やその配下の顔は知っているのが常識であった。  ちどりの間の親娘の客をあやしいと思い、嘉助は性分で、そのことをるいにもお吉にも洩らさず、一人でひそかに見張っていた。  果して、足の怪我も癒えたと思われる今日、裏梯子から忍び出た長七をみつけたものである。  無論、嘉助はこの男が、水鳥の大三の手下の長七とは知っていない。  ただ、勘にまかせて、相手の行く先をつきとめようとしたものである。  嘉助にとって意外だったのは、そんな自分の姿をどこでみつけたものか、孫娘のお三代が追いかけて来たことである。  気がついたのは永代橋を渡ってからである。 「おじいちゃん」  声をかけられて、とび上るほど驚いたが、追い返そうにも、わけを話して納得させる余裕がなかった。うっかり、尾けている相手から眼をはなすと見失う危険がある。それに、五歳の孫を、ここから一人で帰らせるのは、まことに心もとなかった。止むなく、嘉助はお三代を背負って、尾行を続けたのであった。  空が急に曇り出したのは、深川に入ってからである。まだ、昼前なのに、夕立でも来そうな空模様であった。  降り出したらことだと思い、嘉助はお三代を背負い直した。  長七が立ち止ったのは、永代橋の北の下の橋を東へ、油堀を突き当った、俗に三角屋敷と呼ばれている町の近くであった。  みていると、通りすがりの酒屋の小僧に駄賃をやって、手紙のようなものを手渡している。  小僧が手紙を持って、霊験稲荷の方角へ走って行くのをたしかめると、長七は道をそれて歩き出した。嘉助があとを尾ける。  平野町へ出る。この町は東西が二十三間、南北が三間の片側町であった。寺がある。  高岡橋を長七が渡った。近くの法乗院という寺の中に閻魔《えんま》堂があるところから、閻魔堂橋とも呼ばれている。  長七はゆっくり歩いて閻魔堂へ近づいた。しきりとあたりを見廻してから、堂の扉をあけて、なかへ入った。  嘉助は途方に暮れた。こういう時、どうも背中のお三代が邪魔である。  法乗院まで行けば、住僧がいるだろうし、お三代をあずけられると思うものの、そっちへ行っている中に、もし、長七に逃げられでもしたら、一大事であった。気がついてみると、お三代は祖父の背中で、ぐっすりねむっている。汗を拭き拭き、嘉助は閻魔堂をやや下に見下せる草むらへ上って行った。そこへお三代を寝かせる間も、閻魔堂から眼をはなさない。  蝉《せみ》がひときわ姦《かしま》しく啼き出して、あたりが暗くなった。いよいよ、降って来そうである。草むらのわきが小さい掘割で、そこに小舟がつないであった。屋形舟というほど気どったものではないが、雨よけの屋根が小さくついている。嘉助はそこへお三代を運び入れた。  草むらを這《は》い上ってくると、もう雨であった。大粒の雨が嘉助の頬をかすめる。掘割から続く海が黒くみえた。波が荒くなっているらしく、白波が立って、険しい形相に変っている。小舟の中の孫娘を気にかけながらも、職業意識で、嘉助は閻魔堂から離れられなかった。大きく枝葉をひろげた欅《けやき》の大樹の下へ移行し、身を伏せて、嘉助は待った。  大きなことがはじまるような予感がしてならない。  どのくらい、そうして待っただろうか、待つ事が苦にならない嘉助が漸く、時刻を意識しはじめた時、人の足音が聞えた。かなりな人数である。欅の木の下から、嘉助は一人、二人と数えていた。傘をさしている者、笠をかぶっている者、手拭で頬かむりをしただけの者、全部で九人であった。  先頭を歩いていた背の高い男が立ち止って閻魔堂を顎で仲間にしめしている。嘉助は息が止りそうになった。 「水鳥の大三……」  かつてるいの父、八丁堀同心、庄司源右衛門の捕方として働いていた時分、中川筋を荒していた水鳥の大三一味を小名木川まで追い込んだことがあった。結果的には、一味の中の三人を捕縛しただけで逃げられたが、その時に首領の大三をはじめ、数人の手下の顔をみている。嘉助は眼をこらした。  傘をさしている浪人風のが、大三の片腕といわれる市三郎、その傍についている小男が日暮しの弥吉、野ざらしの勘次、流山の六太、荒浪の九蔵……残りの三人は、嘉助の知らない顔である。  これは大捕物になる相手であった。歯がみをしたのは、単身であることだ。若い者でも連れていれば、すぐに知らせに走らせるところである。  嘉助は動けなかった。一行は閻魔堂へむかっている。その中には、嘉助の尾けて来た長七がひそんでいる筈であった。  嘉助は再び、眼をむいた。雨にぬれている閻魔堂の屋根に一瞬、人影が動いたからである。長七はぴったりと屋根に伏せていた。  長七のななめ下に水鳥の大三、市三郎、九蔵が閻魔堂へ近づいて行く。  嘉助にはみえなかったが、長七の上体がいくらか上った。音もなく吹き針が先頭の市三郎の眼をねらう。続いて九蔵、弥吉……。  絶叫が起り、誰かが屋根へむけて銛《もり》を投げた。身をひねって、長七が躱《かわ》す。その口から再び、針がとんだ。これは距離が遠い。  閻魔堂の屋根は低かった。小さなお堂である。残りがばらばらと堂の四隅へとりついた。  長七は絶体絶命である。嘉助が跳んだ。懐中には草むらにいた時、拾い集めた小石や瓦礫が入っている。夢中で一つを投げた。正確に大三の肩に当る。だが礫以外に得物はなかった。宿屋の番頭の悲しさで、長年、肌身はなさなかった十手も、今はない。 「畜生っ」  抜刀した一人が、まっしぐらに嘉助へ斬ってくる。小石を投げ、嘉助は雨の中を逃げた。  呼吸がはずみ、駄目かと思った時、眼の前に人が立った。敵かと立ちすくむと、 「嘉助……大丈夫か……」  東吾であった。嘉助を追った男は東吾のすさまじい峰打ちでぶっ倒れている。 「しっかりしろ、怪我はないか」  畝源三郎が雨の中で声をかけ、十手が敵の一人をはじきとばした。  捕方と思われる男が、嘉助のわきを走って行く。 「のがすな……」  叱咤する声は、嘉助も顔見知りの、この辺りの岡っ引、長助であった。  瞬時の捕物であった。水鳥の大三以下七人は捕縛され、二人は捕方に殺された。それだけ、抵抗が激しかったので、捕縛された者もかなり重傷を負っている。無論、捕方にも怪我人が出た。 「お父つぁん……」  お糸が雨の中をころがるように長七にすがりついた。 「堪忍して……あたし、お父つぁんを助けたくって……」  長七が娘の肩へ手をかけた。 「心配するな。お前は、もうお父つぁんの娘じゃねえ……」  制するお糸を押しのけるように、 「旦那……お糸はあっしの子じゃねえんです。行徳の……」  その時、嘉助が草むらの上から悲痛な声をふりしぼった。 「誰かっ、舟が流れたっ……お三代が乗ってるんだ」  嘉助の指す方角へ、いつの間にか水の増した掘割の流れがすさまじくみえた。小舟が一つ、矢のように押し流されて行く。 「お三代が……お三代が乗っているんです」  もやっていた綱が、ほどけたのか、切れたのか。  掘割は大川へ出て、すぐ海になる。潮の加減か小舟はすいこまれるように海へむいていた。漕ぎ手の乗っていない舟である。横波をくらったら、間違いなく覆《くつがえ》る。小舟に乗っているのは五歳の娘であった。 「旦那……」  長七が顔をあげた。 「あっしが、お三代ちゃんを……どうか、ちょっとの間、お縄を……」  源三郎をみつめて、いそがしく言った。 「逃げやしません。お糸を……おいて、あっしはどこにも行けやしません」 「助けられるか」 「吹き針の長七、もとは房州の荒海育ちでさあ」  長七は走った。掘割沿いの小舟へとび移る。あっという間に舟は流れに乗った。この辺の水路を知り尽しての竿さばきだ。  お三代の乗った舟が大川へ出る手前へ、入り組んだ水路を巧みに舟をあやつって先まわりした長七の舟がぶつかるように漕ぎよせて行く。  大川はそこから海へむいて、水が渦を巻いていた。  竿をしなわせて、長七が跳んだ。小舟の中で、お三代はぐったりしていた。長七の手がしっかり幼い娘を抱きかかえた。  お三代をしょって、長七がひき返してくるのと、東吾と嘉助とお糸が、雨の中を走ってくるのとは、深川のとばくちで、ばったり出逢った。 「お三代……」  嘉助が孫娘を抱きとり、わあっと声をあげて泣いた。 「お父つぁん……」  お糸が、流石に力尽きてすわりこんだ長七にしがみついた。 「あたしはお父つぁんの子です。なにがあっても……どんなことになっても、あたしはお父つぁんの子……」  雨が、やっと小降りになりかけていた。      五  水鳥の大三一味は伝馬町送りとなった。彼らとは別に長七も入牢した。  取調べに対して、長七はなにもかも話した。  お糸は行徳の大地主、鈴木金兵衛の末娘だということであった。  今から十三年前、江戸川を流されて来て、長七が助けた。 「ちょうど、今日のような空模様で、船遊びに出た途中、川が荒れ出して、家族は舟を下りていたのに、残っていたあいつだけが舟ごと流されたんです。お糸は三つでした」  濁流の中を流されて行く小舟の中で泣き叫んでいたお糸を、長七は命がけで助けた。 「ちょうど、それくらいの年の娘を女房と一緒に死なせたんです。津波でした。あっしが漁に出ている留守のことで……」  悪い仲間へ入ったのは、それからのことだという。 「はじめは、どこの娘だか知りませんでした。その中に守り袋の書きつけで、行徳の大地主の娘と知りました。調べてみると、やっぱり、その日、船遊びに出て、末っ子が行方不明になって、親はもう諦めて死んだものとして供養をしていました」  お糸を返そうと思い、返せなかったのは、死んだ娘に瓜二つのような気がしてならなかったからである。又、お糸は嘘のように長七になついていた。お糸をしょって、長七は葛西を逃げ出した。転々と住みかを移り、お糸を育てた。  仲間には、お糸の素性をひたかくしにかくしていたのに、いつの間にか水鳥の大三は気がついていた。 「仲間から逃げ出したのは、お糸を仲間に入れようとしたからでございます。あの子を一味に加え、盗みの手伝いをさせようといい出したので……」  それまでにも、何度か盗賊の足を洗おうと考えていた。お糸のためにも、盗みや人殺しはしたくないと思い、もっぱら、船頭役をつとめるだけにしていた。 「それでも盗っ人は盗っ人でございます。大三はあっしのしぶるのをみて、もし、お糸に盗みの手伝いをさせないのなら、行徳の本当の親の許へ連れて行って、礼金をせしめるといい出しました」  たまりかねて、長七はお糸を連れて、仲間から脱走した。  仲間の追及は、長七が考えたより、遥かに執念深かった。「かわせみ」の二階で、脱走の時の怪我を癒しながら、長七はお糸のために九人の仲間を殺す決心をした。 「あいつらが一人でも生きていたら、お糸の幸せはいつ、くつがえされるかわかりません。九人を殺せたら、自分は死んでもかまわないと思いました」  長七は、深川の三角屋敷にある一味のかくれ家へ呼び出しをかけ、閻魔堂で戦いをいどんだのであった。  江戸の夏は盛りをすぎていた。  お糸は、父親が捕縛されてから、ずっと、「かわせみ」にあずけられている。  そのお糸を連れて、東吾と源三郎は行徳へむかった。 「むこうには、まだ、なにもいっていない。ただ、それとなく、お前に、お前の本当の親や、親の家をみせてやりたいのだ。その上で、お前が考えればよい」  かたくなに、生みの親には逢いたくないというお糸をなだめすかして、行徳がよいの舟へ乗った。  暑い日だが、川風があって、思ったより心地のよい旅であった。  三角の渡しに上る。  荒神の森が鬱蒼たる夏木立をみせていた。  田舎だけに、蝉の声も江戸市中より、のんびりした雰囲気がある。  田は草取りの季節で、百姓は泥まみれになっていた。早稲はもう穂が出かかっている。  鈴木金兵衛の家は、豪農というより大町人の別宅のような凝ったものだった。  三人がそこへ近づくと、たまたま、どこかから帰って来たらしい主人の金兵衛とその女房が大声で奉公人を叱りとばしながら、足を洗わせていた。  どちらも、金持特有の権高《けんだか》な顔や物言いであることに、東吾も源三郎も鼻白んだ。  お糸が先に歩き出し、東吾と源三郎があとを追った。  かなり行ったところに寺がある。寺の裏手が墓地であった。  お糸が墓地の中へ入って行くので、男二人もついて行った。  探すまでもなく、鈴木金兵衛の家の墓はみつかった。他のとは比較出来ないほど立派な墓所で、代々の墓石が並んでいる。  お糸が墓石の裏を指した。そこに女の戒名と死んだ年月日が彫ってある。お糸が江戸川へ流された日であった。享年三歳の四文字をお糸の指がそっと撫でた。 「あたし、長七の娘です。川に流された子は死んで、あたしはお父つぁんに助けられた。お父つぁんの娘なんです」  幸せな歳月だったと、お糸は眼をうるませた。 「お父つぁんはやさしくて、あたし、お父つぁんにすがりついて安心して育ったんです。今更、どこへも行くつもりはありません」  墓に合掌すると、さっぱりした態度で立ち上った。来る時の重苦しく、悲しげなものがお糸から消えて、ほがらかな、いい表情になっている。 「これから、どうするつもりだ」  帰りの舟の中で、東吾がきいた。 「働きぐちをみつけて、お父つぁんが罪のつぐないをして帰ってくるのを待っています。もし……もし、帰ってくる日がなかったとしても……あたしは……待ちます」  唇を噛みしめて、ほろほろと声もなく泣いている娘を、東吾は途方にくれてみつめていた。  お糸は、そのまま、「かわせみ」で働くことになった。  るいがどうしてもそうしたいと言いはったし、嘉助も、 「私事で申しわけございませんが、お三代の命の恩人の娘さんでございます。せめて、お糸さんのことは手前が……」  と必死になる。 「よく働いてくれるんです。気がついて、やさしくて、素直で……みんなにかわいがられて……あんないい子、めったにいやあしませんよ」  東吾が行く度に、るいが自慢した。声をひそめて、 「まさか、長七さん、お仕置にはならないでしょうね。命だけはなんとか助かるように、畝さまへも再三、申し上げているんですけれど……」  東吾から、兄の通之進へも、長七の命乞いをしてくれとせがむ。 「そんなこと、いえるものか。天下の御法は私情で左右されるものではない」 「それだって、長七さんは人殺しもしていないし、いやいや仲間に入ってたんですよ。それに、嘉助のお三代ちゃんを助けたこともあるんだし……」 「そういうことは、お上が判断してくれる。素人の口出しは無用だ」 「東吾さまの意地悪」  るいはむくれて、口をきかなくなった。 「どうも、大川端にも困ったものだ。これだから、女子と小人はなんとやらだな」  源三郎に苦笑していったが、東吾も内心、長七の判決は気がかりであった。  どんなお裁きが出るのかと、気が気ではない。  るいの許へ行きそびれたまま、秋風の声をきくようになった。  日中は暑さが残っても、朝夕はしのぎやすい。白絣の袖がなんとなく涼しすぎるような夕方、東吾は兄に呼ばれた。 「水鳥の大三一味の刑がきまった」  香苗のたてた茶を飲みながら、通之進はいつもながら感情をみせない。  七名の中、主だった五名は断罪、二名は遠島という。 「長七は……」  ごくりと唾をのみ込み、東吾は声をつまらせた。 「長七はどうなります」 「長七……?」 「お糸の父親です」  通之進が眉間《みけん》に皺をよせた。 「長七は死んだよ」 「ええっ」 「入牢中に病死したそうだ」  顔色が変って、東吾は膝前を掴んだ。ふっと、兄の眼が笑っている。 「お糸といったな」 「は?」 「船頭の父親がいるそうだ。間もなく、親娘一緒に暮せるようになるだろう」 「兄上……」 「海賊の長七は牢死《ろうし》した。船頭長七は嘉助の孫娘を助けた褒美を与えられる」  香苗が袂で口許をかくした。東吾の驚いた表情を笑っている。 「知らせるところがあるのではないか。夕涼みをかねて出かけるのはかまわぬ。但し、夜遊びはならぬぞ」  東吾は屋敷をとび出した。  大川端も秋の気配が濃い。 「先程、畝さまがお知らせ下さいました。きっと、東吾様がおみえ下さると思って……」  るいの夕化粧がいつもより濃かった。  寄り添って堤へ出る。葦のしげみに光っている蛍の数もまばらだった。  江戸の川筋を荒しまわった海賊の長七は死んで、船頭長七が娘の許へ帰ってくるといった兄の顔が浮んでくる。  秋の蛍が、弱い光芒をひいて川へ消えた。 [#改ページ]   倉《くら》 の 中《なか》      一  夕方から、るいの左の眼が痛み出した。  洗っても冷やしても、痛みはおさまらない。 「手遅れにならない中に、お医者さまにみて頂いたほうが……」  女中頭のお吉が、大丈夫だといいはるるいを説き伏せて、神田にある眼医者へ連れて行ったのが、初更《しよこう》。幸い、るいの亡父の知人であった眼医者が家にいて、すぐに手当をしてくれた。瞼の裏に小さな腫物が出来ているのを切り、薬を塗って、そのあと痛み止めの薬湯を飲まされて、るいは少し眠った。  そのまま、医者の家へ泊ってよかったし、医者も勧めてくれたのに、落ちつくと、そこは性分で、どうしても家へ帰るという。 「宿屋商売のほうは、番頭さんが取りしきっていますから、なんにもご心配はないんですけどね」  ずっと待っていたお吉が苦笑しながら、それでも子供の時から、るいの性格を知っているので、提灯を借りて医者の家を辞去したのが深夜であった。  初老の医者が気づかって、供をつけようというのを、るいもお吉も断った。今でこそ、大川端の「かわせみ」という小さな宿の女主人と女中頭だが、昔は八丁堀で鬼と仇名のあった同心の娘であり、その時の奉公人だから、主従とも女のくせに気が強い。  辻へ出れば駕籠もあろうし、神田と大川端は、乗ってしまえばそれほど遠いわけでもない。  眼帯で片眼を被ったるいの手をひいて、お吉は歩き出した。  あいにく月のない晩で提灯がなかったら足許がおぼつかない。  小さな神社があった。その境内を横切るのが、辻へ出る近道である。  ひっそりした社前で、るいもお吉も足を止めて合掌した。 「やっぱり秋ですねえ。寒くありませんか、お嬢さん……」  夜気の中で、お吉が気づかった時、どこかで枝の折れる音がした。どすっと地に黒いものが転んだ気配である。 「お吉……」  るいがそっちをみて、お吉は提灯を高くかかげた。  松の木の根方に、明らかに人がみえた。低いうめき声も聞える。  普通の女なら逃げ出すところを、るいもお吉もためらわずに、その場所へ近づいた。  僅かに白くみえたのは、老女の着ている上布の着物で、その足許に紐を結んだ松の枝がころがっている。  あとでわかったことだが、老女は松の根元にあった碑を踏み台にして縊死《いし》をはかったものであった。あいにく、松の枝が枯死していて、さして重みがあるとも思えない老女の体すら、支えかねて折れたらしい。  こういうことになると、お吉の手ぎわはよくて、まず辻へ走って若い者を呼び、このあたりを持ち場にしている岡っ引の清七に声をかけて、処理をまかせた。  清七というのは、もう初老で、本業は松の湯という神田の大きな湯屋の主である。親の代からお上のお手先をつとめていて、八丁堀にも顔を出していたから、咄嗟《とつさ》に、お吉も彼に事件をゆだねる気になったものだ。 「首くくりの婆さんを助けたそうじゃないか」  翌日の午後、「かわせみ」の客の大方が発ってしまって、夕方、新しい客が入るまでは宿屋の一番手のすいた時刻に、神林東吾が畝源三郎を伴ってやって来た。二人の背後に松の湯の清七がちょっと小さくなってついている。 「清七親分が、るいにちょっと聞きてえことがあるっていうんで、源さんが俺のところへ連れて来たんでね、一緒にやって来たんだ……」  勝手知った家だから、東吾はずんずん、るいの居間へ通る。  清七がききたいというのは、間違いなく昨夜の首くくりの事件で、お上から十手捕縄をあずかっているのだから、宿屋稼業のるいのところへやって来て尋問するのに、なんの支障もないわけだが、そこは、るいが元八丁堀同心の娘というので、なんとなく遠慮があって、畝源三郎を通したものとみえた。  畝源三郎は八丁堀の同心で、清七は源三郎から手札を受けて岡っ引をつとめている、いわば、部下であった。 「それじゃ、お吉も呼びましょう」  るいが気さくにいって、部屋へ通したのに、清七は座布団も固辞し、下座《しもざ》を動かない。 「困りますよ、昔は昔、今は今なんですから、どうぞ、なんでもきいて下さい」  るいに笑われて、清七はやっと実直な口をひらいた。昨夜の老女の縊死未遂の発見の顛末についてくわしくききたいという。お吉は待っていましたとばかり、饒舌になった。  東吾は勿論、源三郎も無言で聞いている。  微に入り、細にわたっての、お吉の仕方話が一通り済んでから、清七は膝を進めた。 「どうも、しつこく念を押しますようでございますが、二、三、繰り返してお訊ね申します」  松の枝の折れる音は、間違いなく聞いたかと問われて、るいがうなずいた。 「私もききました。ちょうど、社前でおまいりを終えた時で、はっきりと折れる音、続いて人の落ちたような気配が致しましたから……」 「お嬢さまとお吉さんが、現場へお出でになったのは、すぐでございますか」 「はい、暗うございましたけれど、白いものがみえましたし、そのまま近づきました」 「お近づきになる前に、現場から誰かが逃げたとか、そういう気配は……」 「なかったように思いましたが……」  お吉も、それは絶対になかったといい切った。 「どういうわけでございましょうか」  縊死しようとした人間の傍に、別な人間がいたのではないか、という清七の問いに、るいはいぶかった。 「いえ、別に深い意味はねえんでございますが……」  恐縮した清七の代りに、畝源三郎が説明役を買って出た。  昨夜、神田の神社の境内で縊死しそこなった老女は、名をかねといって、同じ神田の伊勢屋という質屋の主人半兵衛の実母だという。 「清七が不審に思ったのは、おかねと申す老女に、死ぬ理由がないことです」  伊勢屋は先々代からの質屋で裕福だという。  地所も家作もかなりあるし、質屋稼業も順調であった。おかねの配偶者であった先代の藤兵衛というのは、十年ほど前に卒中で死んでいたが、息子の半兵衛は町内でも評判の孝行息子で、おかねの隠居としての日常はなんの不自由もなく、月に一度、信心で出かける目黒の不動尊詣での他は、たまさかの芝居見物ぐらいで、穏やかな日常を送っている。 「でも、お金があっても、体がよわいとか、不治の病を背負ってってなことで、世をはかなむっていうのもございますよ」  お吉が口をはさんだ。 「そいつも、おかねのかかりつけの医者にきいてみたんですが、伊勢屋の隠居は丈夫なたちで、めったに風邪もひかねえ。なにしろ、心の臓が人並み以上、強いから、おそらく八十、ひょっとすると九十ぐらいまで長生きするんじゃねえかというんです」  大体、おかねの血筋は長命で、母親も九十一まで生きたし、一人いる姉が七十で、まだ矍鑠《かくしやく》としているという。 「おいくつなんですか、その伊勢屋の御隠居さん……」  るいが、いくらか苦笑まじりに訊いた。 「六十一だそうですよ。まだ歯もよくて、なんでも食べるし、耳も眼もしっかりしたもんだそうで……」  年よりが元気なのは、めでたいことに違いないのに、語っている清七の言葉尻に、なにかくすぐったいようなものがある。 「そんなにお元気でしっかりしてなさるんじゃ、お嫁さんはたまらないんじゃありませんか、どうなんです。嫁と姑の折り合いが……」  いいところへ、お吉が眼をつけた。清七がちょっと小鬢《こびん》に手をやった。 「おっしゃる通り、嫁と姑の仲は、うまく行っちゃあ居りませんでした」  清七は、居りませんでしたと過去形でいっておいて、すぐに補足した。 「実は、半兵衛の女房は、昨年の冬に夫婦別れをして居ります」 「夫婦別れ……それはお姑さんがもとで……」 「まあ、世間じゃそういっています。けれども、それを苦にして首くくりをするには、ちょっと時期が遅すぎます」  夫婦別れをしたのは昨年の十二月、ざっと一年近く前である。 「それに……半兵衛の女房が離別になったきっかけは……その、姑が無理に別れさせたというんじゃありませんで……つまり……男とかけおちをしたんだそうです」  清七はよくよく律義者とみえて、他人の色恋を語るのに、ひどく照れた。      二  清七は、どちらかというと口が固くて、伊勢屋の内情について、あまり深くは話さなかったが、それでなくとも好奇心は人一倍のお吉が忽ち、探り出して来た。 「半兵衛って人のお内儀さんはお柳さんっていうんです。相手は伊勢屋の奉公人で喜三郎、お内儀さんより一つ年下で、色は黒いけど、ちょいとした男前だったそうですよ」  伊勢屋の若女房と奉公人の仲は、かけおちするだいぶ前から近所の噂になっていて、姑にいびられたお柳が外で泣いているのを、喜三郎がなぐさめているというような光景を、よくみかけたものだという。 「自分の母親をおさえ切れなかったのは、だらしがないかも知れませんが、半兵衛って旦那さんもなかなか、よく出来た人のようですよ」  女房が奉公人と不義を働いてかけおちしたのだから、武家でいえば、二つに重ねて成敗してもというところを、非は自分にもあるのだから、すぐに女房を離別し、喜三郎という奉公人には暇を出すことにして、二人が先々、夫婦になるのは勝手と、度量のあるところをみせた。 「もっとも、二人はかけおちして行方が知れませんので、そういう旦那の処置は、お内儀さんの実家と喜三郎さんの親のところへ知らされたそうですけどね」  一つには、ことが大きくなると伊勢屋の暖簾《のれん》に傷がつくと考えて、親類などが工作したのかも知れないとお吉はいった。  実際、そういう例は世間にままあることであった。 「なまじ、しっかり者できつい母親を持つと息子は苦労しますねえ」  お吉の感想はそれだけで、老母の縊死未遂については、うやむやに話が終ってしまった。  事件の夜から三日目に、その伊勢屋半兵衛が「かわせみ」へ礼にやって来た。  客間へ通し、るいが逢ってみると、中肉中背の眼鼻立ちのきりっとした、なかなかの美男である。るいにも、茶を運んできたお吉にも、丁寧に手を突いて礼をのべた。 「もっと早くにお礼に参上致すところでございましたが、あの夜、母が腰を強く打ちまして、熱を出し、手前が家をあけることを心細がったり致しましたので……」  礼に来るのが遅くなったことを詫び、手土産として、るいには菓子を、お吉には別に反物のような包を差し出した。 「御丁寧なことで、かえって痛み入ります。私どもがお助け申したといっても、本当のところは、枝が折れて、いってみれば御隠居様の御運がお強かったからのこと……それで、御容態のほうは如何でいらっしゃいますか」  るいの視線を受けて、半兵衛は眩しそうにうつむいた。 「おかげさまで、今朝より平熱に戻りました。お医者の話では、打ち身のほうも、もう心配はないとのことで……」  ただ、なぜ母親が死のうとしたのか、その理由が未だにわからないのが不安だと、半兵衛はいった。 「お母さまは、なにもおっしゃいませんの」  相手の若さに、るいの母性がちらとのぞいた。 「申しません。手前がいくら問うても、ただ、すまないと手を合せるばかりで……」  かすかに嘆息を洩らし、半兵衛は寂しげに微笑した。 「手前の未熟故に、家内を離別致しましたこと……母は心を痛めているのかも知れません。決して、母の所為《せい》ではございませんが、世間様はいろいろにおっしゃいます。心ない噂が、手前の知らぬ中、母の心を傷つけていたものかも知れません」  ふと顔をあげて、黙ってみつめていたるいをみると、どぎまぎしたように居ずまいを直した。 「おやさしさに甘えて、つい愚痴を申しました。お恥かしいことでございます」  再び、腰を低く挨拶を重ねて、半兵衛は帰った。 「よく出来たお方じゃありませんか。お若いのに……又、いい男ですねえ」  るいと一緒に玄関まで送ったお吉が、居間へ戻ってくると、早速、感動した。 「あんないい御亭主がありながら、いくらお姑さんと折合いが悪かったにせよ、奉公人とかけおちするなんて、お内儀さんがどうかしてますよ。そりゃ、少々、気が強くて、意地が悪かったにせよ、ご主人の母親なんですからねえ。ご主人を大事に思うなら、我慢のしようもあったでしょうに……」  前に、自分の母親を抑えられないような男は頼りないといったのを忘れたように、お吉は俄然、半兵衛|贔屓《びいき》になってしまった。 「そうか、あの色男、かわせみへ来たのか」  このところ、るいの眼病を心配して、連日、やってくる東吾が、るいから話をきいて笑った。もっとも、るいの眼のほうは、すでに痛みもなく、日に何度か洗って、紅絹《もみ》の布でおさえているだけだから、東吾の見舞はむしろ、るいに逢いにくる口実のようであった。 「伊勢屋の亭主、まるで歌舞伎役者にしてもいいような優男《やさおとこ》だったろう」 「御存じですの」 「源さんと清七に誘われて、それとなく首実検に行った……」 「まだ、なにか、疑わしいようなことでもございますの」  るいが眉《まゆ》をひそめた。 「いや……ただ、清七はどうも気にしているようだ。岡っ引の勘という奴かな」 「死ぬ理由がないってことですか」 「そのようだ」 「理由は、ちゃんとあるじゃございませんか。半兵衛さんもいってました。お内儀さんを離別したことを、おっ母さんは自分のせいだと思って、悩んでいるんですって……たしかに、お内儀さんが不義を働いたのは、お姑さんの嫁いびりに耐えかねてのあげくだそうですから、おっ母さんが後悔するのも無理じゃありませんでしょう」  るいは、少々、むきになった。まだ、どこかに少年の面影を残しているような半兵衛がしょんぼりとうなだれていた姿が眼に浮ぶ。 「そんな話までしたのか」  東吾が笑った。 「男でも、女でも、身の上話をはじめた時は、相手に気がある証拠だそうだ」 「馬鹿ばっかし……」  流石《さすが》に、るいは赤くなった。 「こんな、俄かめくらのお婆さんに、冗談もいい加減にして下さいまし」 「女の眼病みは色っぽいもんだ。そうやって紅絹の布で眼を拭いているところなんぞ、つい、むらむらとしてくるからな」  思いきり、るいは東吾の太股をつねった。その手を掴んで、東吾がひきよせる。いってみれば痴話喧嘩で、宵の中だというのに、ひっそりしてしまったるいの部屋には、お吉も番頭の嘉助も、すっかり心得て近づかない。  すっかり秋になった夜空に、今夜は細い三日月がかかっていた。  伊勢屋の事件はそれっきりになった。  秋は日一日と深くなり、るいの眼も二週間ほどで元に復した。  大川端の芒《すすき》に吹く川風が冷たく感じられるようになった或る日、若い娘が「かわせみ」に宿を求めて来た。 「どう致しましょう、お嬢さん……」  一応、あがりがまちに待たせておいて、嘉助がるいの意向をききに来たのは、女の一人旅ということの他に、如何にも田舎くさい、貧しげな身なりが、果して泊めてよい客かどうか危ぶんだからである。  もともと、十組も泊めるのがせい一杯の小さな宿屋である。はじめての客で、ちょっと身許の知れないような場合、まず、断るのが常だったが、嘉助が迷った理由は、 「もし、お宿が願えなければ、ほんの少しこちらのご主人にものをおうかがい致したいのでございますが……」  と娘がいったせいである。粗末な木綿物ながら小ざっぱりした娘の仔細《しさい》ありげな様子が、元、捕方だった嘉助に興味を持たせたこともある。  るいが玄関へ出てみると、成程、嘉助のいう通り、田舎娘ながら、利発そうな、よい眼をした客である。あがりがまちに、うつむき加減に腰かけていたのが、るいをみると緊張して立ち上り、いくらか頬を染めてお辞儀をしたのが初々しい感じであった。 「お宿は致します。私になにかお話があるそうですが、おいそぎでなければ、まず、お風呂でもお召しになって、それから、お部屋までうかがいますが……」  宿屋稼業に馴れたつもりでも、つい、育ちで、るいは折りめ正しい物言いをする。娘は更に赤くなり、たて続けに頭を下げた。  お吉に部屋へ案内させ、風呂が終って、膳が下った頃を見はからって、るいは宿帳を持って、娘の部屋へ行った。  娘はきまり悪そうに筆をとった。みていると、住いは川越で、名はとみと、稚拙ながらしっかりした字で書いた。 「お一人で川越からお出でになったのですか」  と、さりげなく、るいは話の端緒を作った。 「はい……」  とみは両手を膝の上で握りしめるようにし、すがるような眼をあげた。 「わたし、田舎者で、上手に話せません。はじめてお目にかかるお方に、無躾《ぶしつけ》とは思いますけれど……」  在所訛りのたどたどしい言い方で、突然、いった。 「わたし……神田の伊勢屋さんに奉公していました喜三郎という者の、身よりでございます」  るいは思わず小さく声をあげた。 「身よりとおっしゃると……」  反問すると、とみはかわいそうなほど赤くなった。小さな声で、子供の時からの許嫁だと答える。るいは途方に暮れた。  喜三郎といえば、伊勢屋の女房とかけおちした相手に違いない。そんな男に、在所で待っている許嫁がいたとは予想もしないことであった。 「わたし……喜三郎さんを探しに江戸へ参りました……もしかすると、あの人は殺されたんじゃないかと……」      三  夜更けまで、とみと話し込んで、るいは翌朝、嘉助とお吉に、自分が帰ってくるまで、とみを決して外に出さぬよう、とみから眼をはなさないようくれぐれもいい含めて、慌しく「かわせみ」を出た。  訪ねた先は、八丁堀の畝源三郎の役宅で、本当は誰より先に、東吾に話したかったのだが、なまじ他人でなくなっている間柄だけに、東吾が居候をしている兄の神林通之進の屋敷にはこっちから訪ねて行くのがはばかられた。  まだ出仕前の時刻で、源三郎はいた。ざっと、るいの話をきいて、 「少々、お待ち下さい」  自分で東吾を呼びに行ってくれた。無論、東吾とるいの仲を知っていて、気をきかせたものである。 「変な奴が、とび込んだそうだな」  東吾は着流しで、余程、いそいで来たらしく、浅黒い額に汗を浮べていた。男の肌に光っている汗をみただけで、るいは体が熱くなった。このところ、東吾に久しく抱かれていない。 「あの、これをみて下さいまし」  眼のやり場がなくなって、るいは帯の間から手紙を出した。喜三郎から、とみに宛てたもので、日付は昨年の十一月の末になっている。 「伊勢屋の女房とかけおちする前だな」  文面は、いわば別れ話だった。  子供の時からの許嫁だったが、今までの縁はなかったものとして諦めてもらいたい。自分のような男は思い切って、どこかに良縁を求めてくれということが、やや、くどく述べてある。具体的に名前はあげてないが、自分は或る女に心を奪われて、どうにも抜きさしならなくなっている。この道が地獄に続いていようとも、もはやひき返すことは出来ないとも書かれていた。 「伊勢屋の女房のことだろうな」  読み終えて、東吾が呟いた。 「ところで、どうして、とみって娘は、るいを訪ねて行ったんだ」 「伊勢屋の中番頭に定吉というのがいるそうで、それが、いつぞやの首くくりの件を知らせて来たそうで」  すでに、るいから話をきいている源三郎が答えた。 「定吉というのは、喜三郎と同じ在所の者で、喜三郎のかけおちのことも、それ以来のことも、なにかにつけて、喜三郎の母親に手紙をよこしていたそうです」  ともかくも、とみという娘に逢ってみようということになり、東吾と源三郎は、るいと一緒に八丁堀を出た。  よく晴れた朝で、大川端は赤とんぼが群をなしている。  とみは部屋にいた。襖をあけると線香の匂いがする。みると小机の上に位牌をおいて形ばかりだが、線香がたむけてある。 「喜三郎さんのおっ母さんの位牌なんです」  驚いているるいに告げた。 「なくなったんですか」 「今日が百カ日なものですから……」  るいが源三郎と東吾をひき合せると、八丁堀の役人ときいて、いくらか怯《おび》えた表情をみせたものの、とみは、はきはきと問いに答えた。年は若いが、老練な定廻り同心といわれるだけあって、源三郎の口調は役人らしさがなく、どこかあたたかい。  どうして、喜三郎が死んだと考えたのかという問いに、とみは蒼ざめた。 「それは……この一年、待っても待っても、喜三郎さんから音沙汰がなかったからです」  自分のところへ手紙がないのは、その前に縁切り状をもらっているし、他の女とかけおちしたのだから当然といえるが、喜三郎の母親のところにも、なにもいって来ないのは可笑しいととみは訴えた。 「喜三郎さんは母一人子一人で、そりゃ親思いの人でした。それまでは月に一度や二度は必ず便りがあったのですし……」 「母親がお前に内緒にしていたのではないのか。息子がお前を裏切った手前、手紙が来ても、お前にそうと打ちあけるわけには行かなかったとか……」 「いいえ……」  とみは激しく否定した。 「おっ母さんは毎日毎日、そりゃあ喜三郎さんのことを案じていました。いっそ、江戸へ出て、行方を探したいとも……」  もともと、あまり丈夫なほうではなかったのが、心痛のあまり、食も進まなくなり、眠りも浅くなって、夏風邪をこじらせたのがきっかけであっけなく世を去ったのだという。 「息が絶える時も、あたしの手を握って、喜三郎さんを探してくれと……」  もし、喜三郎の行方を知っていて、とみに黙っていたのだとしても、 「人間、死ぬ時にまで、嘘はつけないと思います。おっ母さんは喜三郎さんの行方を知らなかったと思います」 「喜三郎が死んだのではないかと思う理由は、それだけか」  源三郎にいわれて、とみは強くうなずいた。 「おっ母さんは何度も喜三郎さんの夢をみたそうです。夢の中で、喜三郎さんはいつも、泣いていたって……」  蒼白い顔で、とみはほろほろと涙を膝へ落した。 「どうも、あれだけじゃ、たよりにならないな。惚れた男に裏切られて、逆上したのかも知れないが……」  るいの部屋へ下りて来て、東吾がいった。 「そうかも知れません。しかし、奇妙なことがあるんです」  清七にきいたことだがと前おきして、源三郎は続けた。 「今年になって、伊勢屋の奉公人が三人ばかり、急に暇をとっています。その理由というのが、まるで下手な芝居話なのですが……倉へ入ると、なんともいやな気分になるといいまして」 「倉へ……」 「伊勢屋は質屋ですから、大きな倉があるんですな、その倉へ商売物の出し入れで、奉公人も出入りをする。それが、今年の冬あたりから、なんとも、気味の悪い……どうにもこうにも、ぞっとするような気持になるのだそうです」 「いやっ」  るいが叫び、東吾の背へ顔をかくすようにした。 「馬鹿馬鹿しいといってしまえばそれまでですが、あまり、そういう話をきくもので、清七も気になって、一度、御用のふりをして伊勢屋の倉をのぞいたそうです」 「やっぱり、ぞっとしたのか」 「胸のあたりが重くなって、気がついたら、背中に汗をかいていたといっています」 「清七が、伊勢屋にこだわるのは、そのせいだな」  東吾が案外、真面目にいった。るいはかすかに慄えて、声も出ない。 「清七に、一応、この話をしてみますが……」  とみには、お上のお調べがすむまで、軽はずみをしてはならないといい渡した。  乗りかかった舟で、東吾も今までのように対岸の火事ではすまされなくなった。あらためて、伊勢屋には並々ならぬ関心を持っている松の湯の清七をたずねて、きいてみるといろいろなことがわかり出した。  まず、かけおちしたという伊勢屋の内儀と喜三郎だが、二人が姿をくらましたのを、伊勢屋では昨年の十二月十五日の夜といっているが、家出する二人を近所の者は誰一人、みていない。これは、別に考えれば当然のことで、物見遊山に出かけるわけではなし、かけおちともなれば、人眼を忍び、夜にまぎれて逃走する筈で、伊勢屋をぬけ出す二人をみていたのは中天にかかる満月ぐらいのものということになる。  又、その夜以後、お柳と喜三郎をどこかでみた者も、清七が調べた限り、一人もいないということであった。  それからもう一つ、伊勢屋の姑、おかねの嫁いびりはかなり激しかったようで、奉公人の話では、二人が同衾しているところへ、平気でふみ込んだり、半兵衛を隠居所である離れへ呼びつけて、夜半すぎても帰さなかったり、かなりきわどいいやがらせをしていたらしい。 「まあ、悴の半兵衛が、もっとぴっしゃり、母親をたしなめられりゃよかったんでしょうが、もともと、見かけ通り、気のやさしい男ですし、それと、おかねって隠居は、半兵衛が腹の中にいる時、亭主の藤兵衛が、その、外で浮気をしましてね。そいつがわかると、以来、一つ家に住みながら亭主を寄せつけなかったっていうんです……」  ぼんのくぼへ手をやって、清七は汗を拭いた。 「相当に気が強いな」  東吾が源三郎と顔を見合せて苦笑した。半兵衛の妊娠中というから、今からざっと三十五年前、おかねは二十五、六。いわば女盛りを亭主に許さず過して来たということは、 「他に男でも作ったのか、役者狂いをするとか……」 「いえ、そういうことは全くなかったようで……おかねは半兵衛の前にも二度ほど流産をしていまして、どっちかというとそういうことがうまく行かなくなっていたのじゃないかという奴もいます。とにかく、半兵衛が生まれてからは悴一辺倒で……」  そのかわいがり方は異常なほどで、片時も傍をはなれず亭主に対するような尽し方だったという。 「なにせ、亭主はそっちのけで、もはや浮気をしようが、妾を持とうが、知らん顔の半兵衛じゃねえ、知らん顔の女房といったところですが……」  世間の噂では、半兵衛は女房をもらってからも、三度の飯は母親とさしむかいで食べ、女房は奉公人と一緒だったという。 「奉公人が喋ったんで、世間に知れましたが、ま、なんにせよ、母親が自分のために、父親とまずくなり、女の一生を半ちくな形で終ったということに、悴は責任を感じているようですよ。母親に強く逆らえないのも、そのあたりにわけがあって……」  それにしても、かけおちしてどこかで暮していると思われる喜三郎を、殺されているのではないかといい出した娘の出現が、清七を困惑させた。 「どうも殺されたってのは唐突で……二人が世をはかなんで心中でもやらかしたというのなら、まだ、わかりますが……」  そうはいっても、清七は伊勢屋の倉の中が、なんとなく気になるらしい。 「昨年の十二月十五日の夜、二人がかけおちをした日だが、その日、その夜、伊勢屋の様子について調べてもらいたいな、奉公人は店にいたのか、半兵衛やおかねは出かけなかったか、出かけたとすれば、何刻に出てどこへ行き、何刻に帰ったか、出来るだけくわしくやってくれ。念には及ばないだろうが、一つ一つ、必ず裏付けをとっておくように……」  源三郎がてきぱきと指示を与えた。 「それと、半兵衛の親類、知人、近所の者、又、内儀のお柳の実家、縁戚などに、十二月十五日以後、お柳の姿を見た者、消息をきいた者があるかどうか、聞き込みをしてみるがいい」  手配はすんだ。残るのは、「かわせみ」に滞在中のとみだが、これは、るいがそれとなく訊ねてみると、 「お金はございます。これは喜三郎さんがおっ母さんに送って来たお金を、おっ母さんがあたし達の祝言に使うよう、貯めておいてくれたもので……あたしも子供の時から庄屋様へ奉公をしていましたから、そのお給金やらで……」  出来れば無駄に使いたくないといった。 「喜三郎さんの生死をたしかめるために使うのでしたら、おっ母さんも許してくれると思います。でも、あたし、遊んでいては……」  お上が取調べて下さる間、どこにでも奉公して、結果を待ちたいといった。 「出来れば、大勢、お人の集るところがありがたいと存じます。お人が集るところなら、ひょっとして、喜三郎さんの消息でも……」  思いつめているのが、哀れであった。  だんだん、訊ねてみると、とみには早くから両親もなく、頼る親類もなかったという。 「喜三郎さんのおっ母さんが歿《なくな》った今、川越には、なんの未練もございません」  なにもかもひき払って、江戸へ出て来たという。 「どこそこというより、うちがようございます。若い者の眼も届きますし、湯屋ですから人はいろいろとやって来ます」  清七が気さくにいって、やがて、とみは松の湯で働くことになった。      四  前の晩、珍しく聖堂時代の仲間と柳橋へくり出して、屋敷の門限に遅れたのをいい口実に、「かわせみ」のるいの部屋に泊った翌朝、宿酔を吹きとばすように、庭で木剣の素振りをしていた東吾のところへ、清七を連れた源三郎がやって来た。  昨夜、柳橋で一緒だったから、勿論、源三郎は、東吾が今朝「かわせみ」にいることを知っている。 「早いじゃないか」  るいの部屋へ戻って、るいがまめまめしく手拭をしぼって背中を拭いてくれるのを、いささか、友人の手前照れながら、東吾は漸く朝靄の薄くなって行く川面を眺めていた。 「東吾さんもお早いですな」  源三郎が笑った。 「実は、もっと早くに来るところでしたが、これでも遠慮して、見計らって来たのです」 「八丁堀の旦那は粋なもんだな」  東吾は笑いとばしたが、るいは赤くなった顔を桶のかげへかくすようにして逃げて行った。 「どうやら、清七のほうの調べが終りましたのと、ちょっと困ったことが出来ましたので」  お吉が熱い番茶に秋|茄子《なす》のいい色に漬ったのを添えて運んで来た。 「伊勢屋の内儀の消息は全くわかりません。手紙をもらった者も、姿をみかけた者も今のところ、一人も居りません。これは、喜三郎も同じです。ただ、この聞き込みの中、内儀の実家で奇妙なことを耳にして参りました」  清七が熱心に語ったところによると、伊勢屋の内儀、お柳の実家では、お柳は喜三郎と共に上方《かみがた》へ行っていると固く信じているという。 「別に、前もってお柳がそういったのでもございません。手紙が来たというわけでもなく、なぜ、そう信じているのかとしつっこく訊ねますと、伊勢屋の半兵衛がそう申したというんです」 「半兵衛が……」 「半兵衛はお柳の実家へ昨年の暮と今年になってと二度、行って居ります。一度目はお柳のかけおちを知らせに行った時で……」  こうなった以上、世間体もあるし、お柳自身のためにも捨てておけないので、とりあえず離縁をしたいから承知してくれと頼んだそうで、 「本当なら、女房が不始末を働いたんですから、その実家に対し、怨み言の一つもあるところを、むしろ、こんなことになったのは、みんな自分が至らないからで、まことに心配をかけてあいすまない、と、そりゃ行き届いた挨拶だったと申します」  親のほうは前々から、娘が姑とうまく行かず、夫婦仲も思わしくないことをきかされていたので、さてこそと驚いたり、恐縮したり、なんとか行く先を探して連れ戻すから、気のすむようにしてくれとまで言ったが、半兵衛は、こうなったからには時期をみて喜三郎とお柳を夫婦にしてやるつもりだし、なまじ、さわぎ立てられると、自分の恥になることだから、もし実家へ帰って来ても、当分、世間へかくし、内緒で知らせて欲しい。決して無分別なことをしないように、くれぐれも頼むと繰り返して帰って行った。二度目に来たのは今年の三月で、親は娘からの音信を今日か明日かと案じていた矢先だった。 「お柳から手紙が来たというんだそうです。上方へ落ちついて、喜三郎と所帯を持ったから、どうか許してくれといって来た。もし、実家で便りでもなさるのなら、居所を知らせようといわれて、お柳の実家では聟の手前、教えてくれともいえず、いや、あのような不始末を働いた娘は今日限り義絶する。どこで野垂れ死にをしようと知ったことではないと申したそうです」  すると、半兵衛は、 「お怒りはごもっともですが、やがて、自分も嫁を迎える日もあろうから、その時は義絶を解いてやって頂きたい。上方のほうへは、ほとぼりがさめるまで、当分、江戸へは帰らぬよう申し送ってやりましょう」  流石に悄然として帰って行ったという。 「そんなわけですから、お柳の実家では音信はないが娘は喜三郎と夫婦になって上方で暮していると思い込んで居ります」 「面白いな」  ぽつんと東吾が呟いた。 「それから事件のあった十二月十五日のことでございますが、この日、隠居のおかねは目黒の不動尊へ月詣りに出かけました」  供は中番頭の定吉に、小僧が一人に古くからいる女中がついて、昼すぎに神田を出た。 「目黒村でございますから朝発ちすれば日帰りが出来ますが、年寄のことで、いつも、むこうへひと晩、泊るんだそうで、帰って来たのは、翌日の夕方、これは目黒まで手前が行って調べて参りました。間違いはございません」  残った番頭は近所に家を持っているので、暮六ツ(午後五時)に帳尻を合せると帰り、同じく通いの飯炊きも、半兵衛夫婦の食膳を片づけてから自分の娘夫婦の家へ戻っている。 「従いまして、当夜、伊勢屋に居ましたのは半兵衛とお柳、それに喜三郎の三人とまだ十二歳の小僧の三之助ということにあいなります」  お柳と喜三郎がいなくなったことについて、半兵衛は、その夜、品物を調べることがあって倉へ入り、夜更けて居間へ戻ってみるとお柳の姿もなく、喜三郎もいないのに気がついたが、前から二人の仲は気づいていたことでもあり、やがてお柳が帰って来たら、よく話し合って、喜三郎と手を切らせ、喜三郎には暇を出そうと考えながら、つい、昼の疲れでぐっすり朝までねむってしまった。ところが、朝になってもお柳も喜三郎も帰らないので、番頭を呼び、心当りを探させたが、とうとう二人をみつけることが出来なかったと話している。 「手前はどうも、このあたりにひっかかります」  清七は気がついたように、さめた番茶に手をのばした。  事件の当夜、喜三郎とお柳の他には半兵衛しか居なかったこと。十二歳の小僧は一度眠ってしまえば、余程のことがない限り、眼をさまさない。 「半兵衛がその気になれば、喜三郎とお柳を殺すことも出来たわけで……、それと、わざわざ、女房の実家へ上方から手紙が来たといいに行ったのも、小細工くさい気が致します」  もし、お柳の実家がその所書きを教えてくれといったとしても、あらかじめ適当な土地の名を知らせてやり、そこへ手紙を出して返事がなければ、すでに二人はそこをひき払ったとか、なんとでも嘘はつけると清七はいった。 「そいつは俺も同感だが、半兵衛がお柳と喜三郎を殺したとして、その死体はどうなったと思う……」  東吾が訊いた。 「そのことなんで……」  清七が忘れていた困惑を顔に出した。 「近所ですっかり評判になっちまったんですよ、伊勢屋の倉が可笑しいということで……」  とみを松の湯へおくようになって、とみが若い衆に話したのに、いろいろ尾鰭《おひれ》がついたらしい。 「伊勢屋の倉には幽霊が出るとか、倉の下には人の死骸が埋めてあるらしいとか……どうも、人の口に戸はたてられませんで……」 「清七親分……」  東吾が思いついたようにいった。 「一つ、たしかめてもらいたいことがあるのだが……姑のおかねが月に一度、目黒へお詣りに行く。その供にいつも定吉に女中に小僧一人ときまっていたのかどうか。半兵衛は一緒に行ったことはなかったのか、その点が知りたい……」  成程と、清七は合点した。 「早速調べておきますでござんす」  一足先に清七が帰り、東吾と源三郎はるいの給仕で少々早い昼飯をすませた。ゆっくり大川端を出て神田へ向った。  松の湯の裏口へまわると、若い衆がとび出して来た。 「畝の旦那いいところへ、今お迎えに行くところで……」  伊勢屋半兵衛が来ているときいて、源三郎は東吾と顔を見合せた。  居間で、清七は半兵衛と向い合っていた。 「こりゃ旦那……」  地獄で仏のような表情をする。 「お役人様でございますか、手前は伊勢屋半兵衛と申します」  東吾と源三郎をみて、半兵衛はへりくだった挨拶をしたが悪びれなかった。伊勢屋の倉を正式にあらためてもらえないかと頼みに来たのだという。 「御承知かどうかは存じませんが、先頃より伊勢屋の倉に、奇妙な風評が立って居ります。それも幽霊が出るなどというのは笑ってもすまされましょうが、倉の中に人の死骸が埋めてあるなぞといわれましては奉公人も気味悪がりますし、手前もなにやら不気味で……こんなことがいつまでも続きますと商売にもさわりますし、それでなくとも気の病の母が、なにを考えるか知れません。どうかお上の手で倉をおあらため下さいまして……」 「半兵衛と申したな」  いきなり、東吾が口をはさんだ。 「お前さんの離別した女房が上方にいるそうだな」  半兵衛は用心深く、東吾をみた。畝源三郎のほうは定廻りだから、半兵衛も顔を知っている。返事をためらったのは、東吾が八丁堀の役人にしては身なりが違うと気がついてのことらしかった。八丁堀の同心は正式には着流しに巻羽織、腰には十手があるし、髷の結い方にも特徴がある。 「女房から手紙が来たそうじゃないか。そいつを今でも持っているのかい」 「いえ……」  慎み深く半兵衛は否定した。 「手紙は焼きました」 「焼いた……?」 「母の眼に触れてはいかぬと思いましたし、正直のところ、手前も口惜しゅうございましたので……」 「そうかい、焼いちまったのかい」  不意に東吾が源三郎をふりむいた。 「畝の旦那、伊勢屋の倉をあらためてやったらどうなんだ。この人がいうように、奇妙な噂が立っちゃ、商売もやりにくかろう、人助けだと思って、望む通りにしてやったら、どうだ」  源三郎が苦笑した。 「清七、すぐ人数を集めろ、おそらく地を掘り返すことにもなろうから、力仕事の出来る者を……」 「これからですか」 「日をおいては、又、あらぬ噂が立とう、掘り返して別のところへ埋めたなどと……そうであろう。半兵衛」  首をちぢめて半兵衛が恐縮した。 「人数が集るまで、半兵衛はこの場を動くな。伊勢屋には直ちに張り番を立たせ、店の者といえども、中へ入れてはならぬ」  半刻の後、清七の指図で伊勢屋の倉あらためがはじまった。  倉の中は勿論、荷物を運び出して一つ一つ調べ、床板をめくって、床下の土を掘り、屋根裏にも人がもぐった。  作業は二昼夜に及んだ。その間、伊勢屋の奉公人達は町役人があずかり、半兵衛はあれ以来、寝ついたきりの母親のいる隠居所につき添っていた。  結果は、なにも出なかった。人間の死骸はおろか、ねずみ一匹出ない。 「旦那、どうも、こりゃあ……」  清七は蒼くなって、汗を拭いたが、源三郎は笑った。 「よいではないか。こちらが疑いをかけたわけではない。伊勢屋の望みにまかせて引受けたのだ」  半兵衛が小腰をかがめた。 「左様でございますとも、二日間の人足代は当然、手前共で持たせて頂きます。まことに御厄介をかけまして……」  ちらと眼をやったのは、そこに中番頭の定吉に支えられるようにしてとみが立っていたからである。半兵衛がとみに近づいた。 「おとみさんとやら、あんたも許嫁にひどい仕打ちをされて、さぞ口惜しかろうが、どうか、わたしに免じて勘弁して下さい。これから先、わたしで出来ることなら、なんなりと力になりますから……」  とみは身慄いし、両手を顔にあてて、むせび泣いた。半兵衛がはじめて荒い声を出したのは、中番頭の定吉をみた時である。 「定吉、お前には今日限り、暇をやります。あらぬ噂を世間様にふりまいて……みただろう、倉の中にはなんにもない。それを土産にとっとと出てお行き……」  あとの始末を清七にまかせ、東吾と源三郎は大川端へ帰って来た。 「倉の床から、なんにも出なかったんですって……」  るいがいきなりいった。 「お吉が毎日、神田まで行って、きいて来たんですよ」 「出るわけがないさ」  負け惜しみでなく東吾はいった。 「床をめくってみたら、床下の土はどこにもここ一年ぐらいの中に掘りおこされた様子はなかった。壁も塗り直したところはなし……」 「じゃ、どうしておあらためなんぞしたんですか」  酒の仕度をしながら、るいもお吉も夢中であった。自分達が失敗したように口惜しがっている。 「倉改めは必要だったんだ。源さん……」  東吾が盃をとり、源三郎をみた。 「質屋の倉の床というのは、案外、汚れているものだな」  源三郎がうなずいた。 「なにせ、いろいろなものが質入れされますからね」 「おとみさん、どうしています」  るいは、それが気がかりのようであった。 「中番頭の定吉が暇を出されたからな。二人して清七のところにいるだろう」 「暇を出されたんですか、中番頭さん……」 「半兵衛は知っていたんだ。とみのところへ定吉がいろいろ知らせていたことを……」  それっきり、男二人は酒になった。女達がなにを訊いても、はかばかしく返事もしない。  夜が更けて、いつもなら、早々に腰をあげる源三郎が悠々と飲んでいる。この分だと、夜っぴて飲みそうな案配である。るいは苛々した。気のきかない人だと腹は立っても、まさか女の口から帰ってくれとはいえないし、もし、そんなことをいえば、東吾に愛想を尽かされそうな気がする。 「いやですねえ、畝の旦那、まだいらっしゃるんですか」  お吉がるいの気持に代って、唇をとがらせた。  夜は三更をすぎたと思われる頃、東吾が盃をおいた。黙って畝源三郎が十手を腰にする。  飲みっぱなしに飲んでいたくせに、二人とも酔っていなかった。 「どこへいらっしゃるんです……」  眉をひそめるるいに、 「明け方、帰る。風呂を熱くしておいてくれ」  東吾は源三郎と出て行った。  星の冴えた夜の道を、男の足だから早い。  伊勢屋の辻に、人影が動いた。 「旦那……」 「清七か……見張りは……」 「ついてます」 「出かけた者は……」 「定吉はあっしのところにいます。そのあとで女中が暇を出されました、やはり、つまらぬ噂をふりまいたというので……」  番頭と飯炊きは帰り、小僧二人は店の二階で鼾《いびき》をかいている。 「それと、隠居のおかねが母屋へ移りました。はなれは寂しいし、女中がいないので……」  東吾と源三郎が同時にうなずいた。  そのまま、足音を忍ばせて、伊勢屋の裏へまわる。倉の屋根が塀の上にみえた。塀のむこう側は庭で、すぐ隠居所のはなれがある。  さくっ、さくっと鍬の音がきこえていた。あたりをはばかるような物音が連続的にきこえてくる。  白い歯をみせて東吾が笑った。 「敵は本能寺だ……」  はなれの床下を掘り返しているところを、半兵衛は清七に捕縛された。床下からは白骨になりかけた死体が二つ掘り出され、お柳と喜三郎であることが確認された。 「やっぱり、殺されていたんですね」  風呂上りの東吾の背へ浴衣を着せかけながら、るいは怯えた声でいった。 「最初から隠居所の床下に埋めてあるって、おわかりだったんですか」  東吾は首をふった。 「そいつがわからねえから、倉の下を掘ったんだ。どこを掘ってもよかったんだが、半兵衛はさかんに倉の下を掘らせたがったからな」 「なぜ、そんなことを……」 「隠居所の床下に埋めた二人を倉の床下へ埋め直すためよ。一度掘って改めたところは二度と疑いはかからない。土は掘り返されて柔かくなっているし、世間の噂やお上の疑いも消えるし、半兵衛の奴、考えたものだ」  明日は大工が入って、めくった倉の床板を全部、打ちつける。倉の床下へ埋め直すのは、今夜しかなかったと東吾はいった。 「しかし、うまく行ったもんだ。これほど、うまくひっかかって来ようとは思わなかった」 「でも、どうして隠居所に埋めてあったのに、倉の中へ入ると清七親分も奉公人も、いやな気分になったんでしょう」  東吾は突っ立ったまま、るいに帯を結ばせていた。 「倉の中で殺したんだ。血のしみが、随分、拭いたんだろうが、残っていたよ、半兵衛はそれをかくすために、いろいろなものをこぼしたり、塗りつけたりして、ごま化していたが……」  質屋の倉の床は汚れているといった東吾の言葉を、るいは思い出した。 「隠居のおかねは、死体は倉の床下にあるとばかり思っていたらしい。毎晩、うなされて、神経的にすっかり参って、首をくくろうとしたんだな」 「他に埋める場所がありそうなもんじゃありませんか、なにもおっ母さんの住む部屋の床下に埋めなくたって……」  東吾がるいを抱きよせた。 「半兵衛はお袋に邪魔されて、女房をずっと抱けなかったそうだ。婚礼をして五年にもなるのに、ほんのかりそめの慌しいちぎりしか知らなかった。お袋も凄いよ。月に一度の目黒詣でも必ず、息子を供にして、決して夫婦二人きりにさせなかったのだから……」 「そんな……」 「半兵衛は女房を殺す前に、はじめてしみじみと抱いたそうだ。夫婦とは、こういうものかと思ったと泣いていたよ」 「やめて下さい……もう、いや……」  るいが東吾にすがりついて、顔を伏せた。  雨戸のむこうは、もうしらじらと明けかかっている。  秋の気配が部屋のすみにひっそりとただよっていた。 [#改ページ]   師《しわ》 走《す》 の 客《きやく》      一  神林東吾が一日、代々木野の秋を訪ねたのは、夜に入って急に冷え込む日が続いたあげくの快晴で、青山にある梅窓院観音から原宿町を抜け、流れを渡って松平美濃守の下屋敷を過ぎるあたりから、輝くばかりの紅葉が道を染めていた。  田は稲刈が七分通り、畑には掘りおこしたばかりの大根が積み上げてあったりする。 「のどかなものだな」  ひときわ赤い紅葉の梢《こずえ》へ眼をとめて、東吾は少し遅れてくる畝《うね》源三郎を待った。  八丁堀の定廻りで、いつもなら黒紋付の羽織に着流しで、小者や下っ引を従えて、江戸の町を走るように歩いている源三郎が、今日は別人のように柔和な眼をして、小川の中をのぞいたり、道の辺の野菊に足をとめたりしている。  二人ともに袴をつけ、足は草鞋《わらじ》ばきであった。今朝早々に大川端の「かわせみ」を発って、ここまで一息に歩き通して来た、健脚を誇る二人ながら、袴の裾は白く埃にまみれている。 「百舌《もず》がよく啼きますな」 「風流はいいが、少し急がぬと、先生がお待ちかねだろう」  代々木野には、二人が聖堂で机を並べていた時分、師と仰いだ老学者が隠棲している。  たまには江戸の俗塵を払って、紅葉を焚いてあたためた酒でもくみかわしに来るようにと招きを受けて、律義に出かけて来たものである。  道はやがて林に入った。このあたりは丘陵が多い。  人の通行は殆どなく、歩いて行く足許でしきりに枯葉が鳴っている。  林はやがて森になり、それもかなり深くなった。この森を抜けると、旧師の山荘はもう一息である。 「しまった……」  いつの間にか、入れかわって先を歩いていた源三郎が、いきなりしゃがみ込んだ。慌てて近づこうとする東吾に、 「危いですぞ、気をつけて下さい。罠《わな》がしかけてあります」  口早に注意した。  罠は、おそらく、狐でも獲るために百姓が仕掛けたものであろう、小さいが、鉄の歯が鋭く肉に喰い込んでいて、源三郎の足からはずすのに東吾は汗をかいた。  手拭で血を止めて、 「いや、歩けます……」  源三郎は苦笑してみせたが、かなり痛むらしく、東吾は途方に暮れた。筋骨たくましい大の男を肩にして、別に旧師への手土産に持参した大きな包もずっしりと重い。  思いがけず、近くに女の声がしたのは、そんな時であった。 「それが、能の紅葉狩を眼にみるようなんです」  代々木野から帰って、まだびっこをひきながら訪ねて来た源三郎を加えて、「かわせみ」のるいの部屋で、その話が出た。  眩いほどの紅葉の大樹の下に、幕をめぐらし、木と木の間に綱を渡して小袖を打ちかけなどして、女達が野立てをしていたものであった。 「どこのお姫さまだったんです」  酒を運んで来た女中頭のお吉がびっくりして、つい、口をはさんだ。 「素性はわからないんだ。大名のお姫さまというのは、源さんの作り話で……まあ、裕福な家の娘、それも町人ではなさそうだったが……人品骨柄《じんぴんこつがら》いやしくない感じでね」 「大変な美女なんですよ。年は二十八、九で……」 「年増じゃありませんか」  お吉はすぐさま、まぜっかえす。 「ぞっとするほど色っぽい女でしてね」  源三郎はいつもの彼らしくもなく、誇張した話し方をしている。 「それが東吾さんをみたとたん、急に親切になりましてね」 「馬鹿をいえ。あれは、源さんの怪我を知ったからじゃないか」  野立てをしていた女主人は一緒にいた老女中に指図して、女中を走らせ、やがて馬を曳かせて来た。気がきいた仕業と思ったのは、馬を曳いて来た男が百姓なのに、こうした怪我の手当に熟達していて、薬も持参し、あらためて、源三郎の足の治療をしてくれた。 「けものが、この季節になりますと、田畑を荒しますので、よく罠をしかけます。知らぬ者がけものみちを歩いてこのような怪我をするのも珍しくございませんので……」  女主人は、いたましそうに傷口をのぞきながら、口を添えた。  その間にも、茶をたてて、東吾にすすめ、ひなびた菓子などで、もてなしてくれる。  馬に源三郎を乗せ、百姓の男がついて、旧師の山荘まで送ってくれたのだが、 「俺としたことが、ぼんやりして、女の家を訊くのを忘れてしまったのだ」  それだけ、友人の怪我を気にしていたのだが、旧師の家へ源三郎を運び込んで戻って来てみると百姓も馬も、もはや、去っていた。 「礼もいわずに終ったのが、どうも心残りでね」  旧師にも、家族にも聞いてみたが、心当りがなく、おそらく、この近くの者ではあるまいということであった。 「それじゃ、お名前もうかがわなかったんですか」  るいが眉《まゆ》をひそめた。東吾が「かわせみ」に来ている日は、化粧も着こなしも、なにがなしいきいきとして、女が匂い立つようなるいである。 「東吾さんにもあるまじきことだとは思いませんか。そのくせ、心残りだと、帰る道中呟きっぱなしですからね」 「畝さまは、どうでしたの、畝さまだって、お訊ねになる機会はございましたのでしょう」  やんわりとるいが逆襲した。 「とんでもない、拙者は傷の痛みでそれどころではありませんでした。第一、その女は東吾さんばかりをもてなしていて、わたしのほうなぞ、ふりむきもしませんでしたからね、名前を訊ねるなど、とんでもないことで」  面白そうに笑って、流石《さすが》に傷を気にしているのか、源三郎はいつもほどは飲まず、やがて、駕籠で八丁堀へ帰って行った。 「惜しいことをなさいましたのね、そんなにお美しくて、色っぽいお方のおところもお名前もわからずじまいで……」  夜更けて、一つ部屋に枕を並べてから、るいがすねた。 「馬鹿、あれは、源さんがお前をからかっているのだ。あいつ、足を怪我して町廻りに出られない退屈しのぎに、お前を突ついて、俺を困らせようという魂胆だろう」 「もう一度、代々木野へお出かけ遊ばしたら……今度はお酒のおもてなしを受けて、ねむっておしまいになると、鬼になって出てくるかも知れませんよ」 「とり殺されても本望だよ。ただし、るいのような鬼女ならば……」 「存じません……」  痴話喧嘩は二、三回、思い出したように二人の間で繰り返されたが、もとより、本気ではなく、夜が更けるのと共にいつか忘れてしまっていた。  もっとも、ちょうどその頃、るいにとってはひとごとでないような事件が八丁堀に起って、まぼろしのような女の話など、どこかへ吹きとんでしまったというのが本当のところだったのかも知れない。 「お嬢さん、ご存じですか、長尾様のお屋敷に捨て子があったという話でございますが」  一番にきいて来たのは、「かわせみ」の番頭をしている嘉助で、これは、以前、るいの父親が八丁堀の同心だった時分からの奉公人だから、宿屋商売をはじめた今でも、八丁堀の仲間とは往き来があり、そんなところから小耳に、はさんで来たらしい。 「それが長尾様のお嬢さま、雪乃さまのお子なのだそうで……」  長尾要というのは八丁堀の同心で、年番方をつとめている。  年番方というのは、役所全般の取締りから金銭の出納、保管などを主な仕事とするもので、常時は与力三人、同心六人、書物方三人によって構成されていた。  派手な仕事ではないが、重要な位置である。  長尾要は、その年番方の中でも、剛直で、温厚な人柄といわれている。歿《なくな》ったるいの父とは、同じ南町奉行所の同心として親交もあり、どちらも娘一人で妻を早くなくしているという共通点もあって、公私ともに昵懇《じつこん》でもあった。  要の一人娘の雪乃は、るいより二つ年上で、どちらかというと内向的な、普段は気のよわい、物静かな娘であった。  るいが神林東吾に対して恋を意識しはじめた頃、雪乃も人を愛していた。  相手は同じ南町奉行所の内与力の息子であった。  内与力というのは、町奉行個人についている役人で、大体、従来からいた自分の家来を新任の町奉行が与力に任命するものである。  ついでながら、当時の南北町奉行所には各々与力二十五騎、同心百二十人が定員とされていた。それらの大半は親代々の与力であり、同心であって、町奉行そのものは幕閣の任命でしばしば交替しても、与力、同心は、変ることなく、任務に当っているのであった。  従って、新任の奉行としては、古くからの与力、同心はいささか煙ったくもあり、自分が気心を知って自由に使える者として、家来を内与力として用いた。つまり、この内与力は、その奉行が町奉行の職を退けば、それについて辞めるので、他の与力、同心とはいささか立場を異にしているものであった。  雪乃と恋仲になった内与力の悴は一人っ子であった。  雪乃も亦、一人娘である。町奉行所の与力、同心は一代限りをたてまえとしていたが、事実はすべて世襲で、親が老いてくると、その子が与力見習、もしくは同心見習としてとりたてられ、親が死ぬと自動的に親の跡を継ぐことになっていた。子のない場合は、養子をして、同じく見習に出す。  雪乃の恋は、まず一人息子、一人娘という障害にぶつかった。長尾家としては娘を嫁に出して別に養子をむかえてもよかったのだが、父親の要はこの縁組を嫌った。一つには長年、手塩にかけた娘を手放し難いという親の情もあり、今一つは、先方の親もこの二人の恋を喜ばないことがわかっていた為だと、るいはきいていた。  両家の親の許へ何度か使者が立って、結局、この縁談は不調に終った。 「こういうことは、せいてはいかぬ。もし、二人が真実、思い合っているのなら、時を待つのがよい。その中には、まわりも折れよう。障害と思っていたものが、そうでなくなる場合もあろうが……」  まだ元気だった父が、雪乃の話をしたのを、るいは自分のことをいわれているように、胸を轟《とどろ》かせながらきいたおぼえがある。  が、その年、奉行は交替し、雪乃の恋人は八丁堀を去った。そして間もなく、妻帯した。  雪乃が渡り仲間《ちゆうげん》のような男とかけおちしたのは、その後であった。無論、長尾要は手を尽して娘の行方を求めたが、消息はなく、やがて、長尾要は娘を勘当とした。八丁堀の役人という職掌柄、止むを得ない処置であった。  るいの父が死ぬ前に、 「庄司の家は、俺の代限りにしてよい」  とるいにくりかえしたのは、おそらく、るいの恋を知っていて、雪乃の二の舞をさせまいとする親心ではなかったかと思う。  るいの恋人神林東吾は、次男坊だが、兄の通之進に子がなく、いずれは弟を養子とし、家督をゆずるつもりであることは、るいの父の耳にも入っている筈であった。  父が死んだ時、るいは養子縁組の話をことわり、同心の株を返して庄司の家をたたみ、町へ出て、「かわせみ」の宿を開業した。東吾が兄嫁の父、当時は目付役をつとめる麻生源右衛門について、長崎へ出かけている留守のことである。  それから数えても、もう二年余りがすぎている。  長尾家に捨て子があって、それが、勘当された雪乃の子らしいという話は、るいに歳月の早さを思わせた。  それにしても、勘当された親の家に我が子を捨てて、雪乃は今、どこにいるのかと思う。  子が生まれたのだから、かけおちした男と添い遂げたのであろうが、その子を捨てたとあっては、容易なことではあるまい。男と別れたのか、死なれたのか、暮しに困ったのか……るいは身慄いした。自分にしても、もし、東吾との恋に破れたら、どこへ心がころげて行くか知れたものではない。  二日ほどして、東吾がくわしい話を持って来た。  捨て子というので、るいはなんとなく赤ん坊を考えていたが、実はそうではなくて三歳になる男児だという。三歳とはいっても、まだ言葉も不確かで、足許もおぼつかないようなのが、誰に教えられたのか、夕暮の、うすら寒い長尾家の玄関にたどりついたところを、たまたま奉行所から帰って来た要がみつけ、手に持っていた雪乃の手紙で、孫と知ったという。 「雪乃さん、どこにいるんです。お文にはなんと書いてあったんですか」 「居所は書いてなかったそうだ。ただ、長年の親不孝を詫び、子供の行く末をくれぐれもたのむとしか……」 「お子の行く末……」 「新太郎という名だそうだ。三つにしてはしっかりしている。泣きもせず、飯をよく食ったとか、要どのが泣いて居られた」 「東吾さま……」  るいは蒼くなった。 「もしや雪乃さんは死ぬおつもりでは……」 「それは、源さん達も心配して、それとなく見廻っている。もっとも、長尾どのは勘当した娘のこと故、捨てておいてくれといわれたそうだが、それは表向きのこと、親心としては、どのように御心痛か……」  ともあれ、長尾家はてんやわんやだという。  老婢に小者二人という静かなあけくれの中に三歳の男の子がとび込んで来たのだ。 「にぎやかなのが、なによりだ。長尾どのにしても、それが救いになろうさ」  男だから、東吾はおっとりしたことをいっていたが、翌日、るいが見舞|旁々《かたがた》、長尾家を訪ねてみると、それどころではなかった。  長尾要は出仕中だったが、三歳の男の子を老婢一人がもて余している。眼をはなせば、縁側から落ちるし、特に悪戯をするわけではないが、そこは男の子で、少しもじっとしていない。一日あとを追いかけているだけで、掃除も洗濯も手につかないという。 「昼間はお元気なんですが、夜、お泣きになるんです。やっぱり、お母さまが恋しいのでしょうか、旦那様が抱いてねかしつけていらっしゃいますが……」  老婢の愚痴をきかされて、るいはとうとう夕方まで、子供の相手をした。なかなかのやんちゃ坊主だが、人みしりもしないし、余程、人恋しいのか、るいにべったりとついて歩く。  馴れないことで、るいは「かわせみ」へ帰って来た時は、腰が立たないほど、くたくたになった。  それが、きっかけで、るいは時々、長尾家を訪ねることになった。老婢も喜ぶし、なによりも新太郎がるいの懐へとび込んでくる。  自分が行けない日には、お吉に子供の好みそうな食物を持たせたり、綿入れを縫ってやったり、例によって、るいのお節介が年の暮をひかえて、一層、忙しくさせている。 「あいつ、よくよく子供好きなんだな」  るいの体の疲労を考えて、このところ、「かわせみ」から心ならずも遠ざかっている東吾が、畝源三郎に苦笑した。      二  三の酉《とり》のある年は火事が多いというが、十二月に入って神田に大火があった。  類焼した一軒が旅籠屋で「藤屋」という、これは、るいが「かわせみ」をはじめる時、なにかと世話になった店であった。  主人の藤兵衛というのが、るいの父親にちょっとした恩を受けたのを、未だに忘れず、今でも商売の様子を訊ねてくれたりしていた。  そんな間柄なので、るいは火元が近いと知るや、直ちに嘉助や店の若い衆や、手のまわる限りの人数を手伝いに出しておいて、自分はお吉や女中達と炊き出しにかかり、沢山のおむすびに沢庵や煮物を添えて、自分も火事見舞にとび出した。  着いた時は、まだ、あっちこっちくすぶっていたが、主人藤兵衛以下、宿泊の客にも怪我はなく、近くの寺の本堂へ落ちついたところであった。 「こりゃあ、おるいさま、こんなにお早く、お心づかいを頂きまして……」  炊き出しの握り飯が、まことに時を得た火事見舞で、藤兵衛をはじめ誰もが涙を浮べて喜んでくれた。  店は焼いてしまったが、火のまわり方が案外、おそかったので、思いの外、家財道具を運び出すことが出来たし、倉もすっかり塗ってしまったから、中の品物はまず大丈夫だと、これは一夜の中にまっ黒になった嘉助が、嬉しそうに報告した。  焼け出された客は、とりあえず、「かわせみ」に移して、風呂を使い、お膳を出し、やすませる者に夜具を敷いた。暮のことだから、のんびりした旅の客はなく、その日の中に発つ者が多く、一日遅らした客も翌日は元気に草鞋をはいた。 「おかげさまで、お客様にも粗相がなく、こんな御迷惑をかけましたのに、皆さん、お気持よくお発ち下さいました。なにもかも、かわせみの皆さんのおかげでございます。暮のおいそがしい時をまことにありがとう存じました。御先代様からお受けした御恩もまだお返し申せませんのに、おるいさまに、このようなお世話を頂き、なんと申し上げてよいやら……」  すっかり、白髪のふえた藤兵衛が、「かわせみ」へ礼に来て、何度も手を合せた上で、おそるおそる、一人の女客をあずかってくれないかといいにくそうに切り出した。 「実は内藤新宿のほうに居ります手前どもの知人より、頼まれまして、十一月のなかば頃からご滞在のお客様でございますが、少々、事情がございまして、うっかり、他の宿へお移り願うわけに参りません。ご迷惑を重ねた上に、まことに厚かましいお願いでございますが……」  なんとか、「かわせみ」であずかってくれないかという。  なにしろ、藤兵衛の「藤屋」は全焼で、すっかり新築するまでには、まだ数カ月はかかりそうなので、とりあえず親類へ身をよせて、その女客も親類の隠居所のはなれに泊ってもらっているが、 「いつまでも、そういうわけに参りませんので……」  女客というのは、千駄ヶ谷のほうの大百姓の娘で、名はおすが、三十二になるという。 「大変、おきれいな方で、気性もしっかりした、非の打ちどころのないお嬢さまでございますが、御両親が早く歿《なくな》りまして……」  そんな年齢になるまで嫁に行かなかったのは、弟と十歳も年がはなれていた為らしい。 「御両親があいついで歿った時、おすがさんが十七、弟の清之助さんが七つということで、御親類の中には、おすがさんに聟をとって家を継がせたらという意見が強かったのに、どうしてもおすがさんが承知せず、とうとうそのまま嫁ぎ遅れてしまったようで……」  昨年の春に、やっと、清之助が二十一で嫁を迎え、事実上、家を継いだ。今年の夏には弟夫婦に赤ん坊もうまれ、まず一安心という段になって、おすがが恋をした。 「よかったじゃありませんか、弟さんも一人前におなりなすったんだし、もう安心してお嫁にいらしても……」 「それがよくございません、おすがさんの見染めたお方というのが、どうも駄目らしいんで……」 「駄目……?」 「手前もよくは存じませんが、間に立ったお方が、あれは駄目だとおっしゃったとか……」  以来、おすがは恋わずらいのような状態になり、どうしても、もう一度、その時の相手に逢いたいといって、江戸へ出て来たという。 「江戸の人なんですか」 「そのようで……ですが、御当人は名前もところもわからないとか……中に立ったお人がどうしても教えてくれなかったそうで……」 「ひどいじゃありませんか、名前とところぐらい教えてあげたって……」  おすがという娘はよくよく思いつめたとみえて、どうしても自分で相手を探し出すといい、神田明神に願かけをして、江戸に滞在し、相手の男を探しまわっているのだと、藤兵衛は汗を拭きながら話した。 「よございますよ。そういうお人でしたら、どうぞお宿を致しますから……なんなら、畝様におたのみして、なんとか手がかりになることでもないか、お力になれるかも知れませんし……」  二つ返事で、るいはひき受けた。 「ありがとう存じます。それから、これも申し上げにくいことでございますが……」  おすがという娘は、寝ぼけの癖があるという。 「別にどうということはございません。夜中に起きて、夢うつつで歩いたりするんで、声をかけますと、はっと眼がさめるようで……」  それだけ承知しておいてくれれば、といい、藤兵衛は早速、おすがを連れに帰った。 「三十いくつになって、夜中に寝ぼけるなんて、その娘さん、少し可笑《おか》しいんじゃありませんかね」  例によって、お茶を運びながら、すっかり話をきいてしまったお吉がいった。 「いったい、どんな人を見染めたんでしょうねえ、中に立った人がいけないっていうんだから、どうせ、ろくでもない男にきまっていますよ」  女も下手に嫁ぎおくれると、つまらない男にひっかかるものだと、お吉は歎かわしそうに繰り返した。  藤兵衛が、どんな女を連れてくるのかと、るいも内心、不安と期待を持って待っていたが、夜になって、伴って来た女は、るいもはっとするくらい、美しい娘であった。三十二というのが嘘のようで、せいぜい二十五、六にしかみえない。今までの話の具合では、なんとなく暗い、寂しげな女を予想していたのに、逢ってみると健康そうで、明るい笑顔の人である。 「どうぞ、よろしくお願いします」  通された部屋で、るいにも、部屋の係になったお吉にも丁寧に三つ指を突いた。 「なんだか、感じが違いますねえ」  お吉もあてがはずれたらしく、藤兵衛が礼をいって帰ったあとで、ちょろりと舌を出した。 「あんな人が寝ぼけたり、恋わずらいをするんでしょうか」  それは、るいも同感だったが、まさか、藤兵衛が嘘をついたとも思えない。 「人はみかけによらないものでございますよ」  嘉助は当分、おすがの泊っている部屋の真向いの小部屋へ寝泊りするといった。  嘉助は嘉助で、この娘に特別の不安のようなものを感じているらしい。  だが、数日、おすがという娘は、格別、変ったこともみられなかった。  朝の食事が済むと、一人で出かけて行く。一日、嘉助が尾《つ》けた。 「浅草を歩きまわりました」  主に浅草寺から仲見世で、これはいつも人出の多いところだから、尋ね人にはうってつけである。が、解《げ》せないことが一つあった。  おすがが、料理屋や飯屋に、時たま入って行く。 「飯を食うにしては裏口でございます」  みていると、すぐに出て来て悄然と歩き出す。念のため、嘉助がその店へ入って訊ねてみると、 「女中として働かせてくれないかと訊いたそうでございます……」 「女中として……」  るいもあっけにとられた。なにしろ、千駄ヶ谷の大百姓の娘ときいているのである。おすがの実家の秋山家というのは、そのあたりの大地主で下手な侍は及びもつかないほどの格式を持っているし、無論、裕福である。  女中をやとうことはあっても、我が身が女中奉公とは、まるで合点が行かない。  だが、藤兵衛のいったことが嘘でない証拠が、「かわせみ」へ泊って五日目の夜に起った。      三  るいは寝入りばなだった。  このところ、東吾の足が遠くなっていて、一人寝が続いている。なにか肌寂しく、寝つきが悪くて、るいは随分長いこと、うつらうつらしていた。  夢の中で足音をきいたように思い、眼がさめてみると、現実に廊下を人の歩く音がしていた。  乱暴に歩きまわるというのではなく、ひそやかに、衣ずれの音も聞える。お吉や女中達ではないとるいは判断した。  手早く起き上り、半纏《はんてん》に袖を通し、用心のために短刀を袖の下に持った。  音のしないように襖をあける。次の間と廊下は障子であった。廊下の角にひと晩中つけておく掛け行燈が一つ、障子にその明りが映っていた。  足音は、るいの部屋には近づかず、まっすぐ帳場のほうへ向っている。  障子を二寸ばかりあけ、そっとのぞいた。  流石に、るいは息を飲んだ。帳場の廊下を白い影のようなものが、ふわりふわりと動いている。両手を前方に突き出し、顔をやや、うつむき加減に、乱れた髪、前で結んだしごきがきれいな鹿の子絞りなのも、不気味であった。  おすがであった。眼を閉じ、唇をいくらかあけて、足は雲を踏むようである。  るいが決心して部屋を出ようとした時、とんでもないほうで、叫び声があがった。  お吉だと思ったとたん、おすがの体が重心を失ったように、前のめりに倒れた。  どこにかくれて様子を窺っていたのか嘉助がとんで来て、おすがを抱き起す。 「ああ、お嬢さん、びっくりした……」  お吉は息をはずませていた。 「変な足音がすると思って起きて来たら、いきなり眼の前に白いものがすっと……ああ、肝を潰した……」  廊下へしゃがみ込んでしまったお吉の肩を軽く叩いてやって、るいは嘉助の傍へ行った。  おすがは夢からさめたように、ぼんやりしている。 「あたし、又、寝ぼけたんでしょうか」  るいをみると、おどおどといった。 「悪い夢でもごらんになったんでしょう。御心配には及びませんよ」  よかったら、私の部屋でお茶でも如何ですかと誘ってみると、おすがは、救われたようにうなずいた。  こういうことがあった夜は、そのあと、怖しくて、なかなか寝つかれないという。  お吉が火を起し、るいの部屋の炬燵をあたためた。灰をかぶせて間もない長火鉢に炭火を足し、鉄瓶の湯はまだ熱い。  おすがに自分の新しい半纏を着せてやって、るいはお吉にも嘉助にも寝るようにいい、下らせた。 「申しわけございません。おさわがせを致しまして……」  消えも入りたげな風情で、おすがは詫びた。  いつもは五つも六つも若くみえる顔が、眼の下にうっすらと|くま《ヽヽ》が出ていて、疲れた表情になっている。 「いいんですよ、今夜はあたしも寝そびれていたんです」  熱い茶を中にして向い合うと、おすがはぽつりぽつりと問わず語りに話し出した。  今夜のように寝ぼける癖がついたのは、二年ほど前からだという。 「ちょうど、弟が嫁をむかえまして、一人きりの弟の婚礼のことですから、随分、前から私なりに気を使い、当日は本当にへとへとに疲れ切ってしまいました」  新夫婦を、奥の部屋へ寝かして、客の相手をし、自分が横になったのは、もう明け方近くだった。 「弟の声がどこかで呼んでいるような気がして眼がさめましたら、そこが……あの」  おすがは頬を染め、悲しげに眼を伏せた。  弟夫婦の寝間の外だったようだ。 「どうか信じて下さいまし、私、決して、弟夫婦の様子をのぞきに行ったというような、そんなはしたない真似をしたのではございません。本当に、なにも知らず、気がついたら弟の部屋の前だったのでございます」  るいはうなずき、それにはげまされたように、おすがは喋った。  夜中に無意識に歩きまわる癖がついたのは、それからで、月に四、五回、そういうことが重なった。 「私、自分の寝間に錠をかけました。両手両足を縛ってやすみました。それなのに、気がつくと、家の中を歩いているのでございます」  おすがは涙ぐんだ。 「お百度まいりも致しました、茶道の稽古をすると心が落着くといわれて、それも……」  最後には、古くからいる老女中と手と手を紐で結んで、自分が起き上ったら、すぐ気がつくようにしてもらった。  なにをしても、一時的にはよくなり、すぐに又、もとの木阿弥になった。 「私、弟にすまなくて……弟は長い間の疲れが出たのだといってくれて……でも、それでは世間がすみません」  嫁ぎ遅れの姉が、弟の嫁に嫉妬して、夜中に寝間をのぞきに行く、おそらく、そうした噂が周囲に広まって行ったであろうことは、るいにも想像出来た。 「第一、私は小作人に評判がよくないんです」  おすがが、寂しそうに笑った。 「弁解がましいかも知れませんけれど、父が歿《なくな》った時、あたし、十七でした。幼い弟を抱えて、ちょっとでも油断すると、小作人は狡《ずる》いんです。阿漕《あこぎ》な真似をしたわけじゃありません、でも、少しでもあの時、甘い顔をみせたら、山も土地もめちゃめちゃにされたんじゃないかと思います。あたし、父が残してくれた秋山家の財産を少しも減らさないで、弟に受け継がせたかったんです」  親類もうっかり信用出来なかったとおすがはいった。物持ちの家とはそうかも知れないと、るいも思う。一家の主人が急死したあと、女房、子がなにもわからないでいる中に、親類がよってたかって財産を食い荒してしまったという話は別に珍しくない。  十七の小娘が幼い弟を抱き、大勢の小作人を相手に家産を守るのが、どんなに苦しいことであったか。おそらく、背負い切れないほどの重荷が、おすがの肩に乗っていた筈である。 「どうして、お聟さんをお迎えなさらなかったんです。お好きな方がいらっしゃらなかったんですか」  るいが聞いた。 「いました……」  小さく、はにかんだ声でおすがが答えた。 「その人となら夫婦になってもいいと思っていた人が……いるにはいたんです、でも、必死で断りました……」 「どうして……」 「あたしが聟をとって、弟が大きくなるまで、秋山家をあずかればよいと、親類もいったんですけれど……」  るいはうなずいた。 「あたしも、そう思いますよ、お好きな人がいらしたのなら……」 「考えたんです。夫婦になって子供でも生まれたら、人間どうしたって欲が出ます。弟が一人前になった時、弟にゆずる財産を惜しいと思ったり、ひょっとしてゆずらないようなことになってしまったら、とりかえしがつかないって……」 「そんなことまで、お考えになったの」 「考えすぎかも知れません、でも、あたしは父に約束したんです。きっと、弟を一人前にして秋山の家を継がせるから……安心して成仏して下さいって……父は死ぬ時、とっても苦しんだんです。でも、あたしがそういったら、嘘のように苦しみがなくなって、最後は、そりゃあ安らかに逝きました」  ぽろぽろっと、おすがは涙を膝へこぼした。 「苦労なすったんですねえ」  心の深いところから声が出た。この人の苦労にくらべたら、「かわせみ」を開業した自分の苦労など、ものの数ではないと思う。 「苦労した甲斐があったと思います、弟は立派に一人前になりました。小作人の受けもとってもいいんです」  女だと眼を釣り上げ、肩をいからしていなければならないところが、男はなんでもなくやりこなしてしまうとおすがはいった。 「嫁もいい嫁ですし、長男も生まれました。嫁の実家もいい人達ですし、もう、なんの心配もありません」  情ないのは、自分の病気で、これは決して嫁を憎く思っているからでもなく、嫉妬しているのでもないが、結果的にはそうみえても仕方がない。 「江戸へ出て来ましたのも、本当の気持は、弟の傍からはなれたいと思ったからです。今のままでは、弟の嫁にもすみませんし、私もみじめですから……」 「それで、働く先をみつけていらしたんですか」 「ご存じだったんですか」  るいは微笑した。 「あたし、昔は八丁堀の娘だったんです。申しわけありませんけど、あなたのことが心配で、一日、番頭さんがあとを尾けました」  ばらしたついでに訊いた。 「でも……どこかでお見染めになったお方があるってことは、まるっきり嘘じゃないんでしょう……」  おすがは真赤になってうつむいた。 「もし、なんでしたら、もと八丁堀の娘ということが、お役に立つかも知れませんけれど」 「よろしいんです、あれはもう……」  激しく首をふった。 「あのことは夢のように思っています、二度とお目にかかる折もないでしょうし──もう、よろしいんです……」  障子の外が明るくなっていた。  冬の遅い夜明けが近づいている、鶏鳴が大きく続いた。  柳橋で仲間と飲んだ帰りだといって、東吾が畝源三郎と一緒に「かわせみ」へやって来た時、るいは早速、その話をはじめた。 「お吉からきいたよ。怒っていたぞ。幸い、他のお客が気づかなかったからいいようなものの、あんなのがいつまでも滞在しては、かわせみの評判が悪くなるとさ」  東吾が笑ったのを、るいは真顔になって腹を立てた。 「冗談じゃありません、よく、わけもわからず、そんなひどいことがいえるもんですね。もっと真剣にきいて下さい」  るいの剣幕に男二人は神妙な顔でお茶漬を食べながら、長い話をきく破目になった。 「そりゃ大変なしっかり者だな」  るいが一通り喋り終えてから、東吾が感心した。 「しかし、かわいそうだな、女も三十二にもなって男を知らないと、自分では嫉妬でないと思っていても、情念という奴が承知をしない。夜中にふらふら歩き出すのは、やっぱり、それだよ」 「違いますったら……長年、苦労した気のゆるみで……」  るいは自分のことのように赤くなった。畝源三郎は聞えないふりをして、しきりに青菜の漬物を食べている。 「そういうのは、好きな男でも出来れば、ぴたりと治る、ずっと前に医者からきいたことがあるんだ……」 「いやらしい、そうじゃありませんったら」  その時、嘉助が障子の外へ来た。 「あいすいません、おすがさんがお嬢さんにちょいと……」  おすがが廊下へ来ているとわかって、るいは何気なく障子をあけた。 「どうぞ、お入りなさいな。ちょうど八丁堀の旦那もみえてるんですよ、もしなんだったら、あなたの探しているお人のことを……」  障子をあけはなしていると、廊下の冷たい空気が入り込んでくる。それを知って、おすがはすすめられるまま、部屋へ入って障子をしめた。  ふた間続きの奥のほうに源三郎と東吾がいて、間の襖は開けはなしてある。  遠慮がちに手を突いて、おすがが顔をあげた。奥の間からは源三郎と東吾が、これは好奇心で、おすがのほうをみる。  あっといったのは源三郎で、東吾のほうはおすがが部屋をとび出して行ってから、やっと、あの女だと気がついた。  代々木野の、紅葉の中にいた女だったのである。 「驚きましたな。世の中、広いようで狭いものです」  源三郎が笑いながら、打ちあけた。 「実は……代々木野から帰って間もなくでした」  老師から文が届いて、千駄ヶ谷辺に住む大百姓の娘が、東吾に一目惚れしたといって、その身内があの時、源三郎を馬に乗せて送ってくれた百姓を道案内にして訪ねて来たが、どうしたものか、と問い合せて来たという。 「無論、東吾さんには然るべきお方がいるのは百も承知ですから、その旨、老師に返事をしておきました。老師は慎重なお方ですから、東吾さんの素性も名も知らさず、縁なきものとして話を退けられたようです」  東吾はあっけにとられた。 「源さんも人が悪いな、どうしてそんなことを……今まで……」 「迂濶《うかつ》に耳に入れると、東吾さんがいい気になって困りますからね。それに、こうしてかわせみへ飯を御馳走になりに来にくくなります……」 「畝さま……」  るいは、やり場のなくなった眼を部屋のすみへ逃がした。 「おすがと申す娘のことは、手前におまかせ下さい。幸い、心当りがござれば……」  途方に暮れている東吾を、るいの部屋へ残し、源三郎はお吉に案内させて、おすがの部屋へ出かけて行った。  小半刻ほど話していたが、戻って来て、 「おすがさんをお借りして行きます」  駕籠を呼んで、おすがをのせ、付き添って出て行った。  るいと東吾と、二人きりになると外の木枯らしが急に耳につきはじめる。 「あいつ、どこへ連れて行ったのかな」  ぽつんと東吾が呟いたのが、るいの感情に火をつけた。 「お気になるなら、ついていらっしゃればよかったのに……」 「馬鹿、なにを怒ってるんだ」 「今からでも遅くはございません。あんなおきれいな方から想われて……」  みっともない焼餅は焼くまいと思いながら、るいはとうとう涙声になった。 「いい加減にしろよ、俺はあの女をみても、咄嗟に思い出せなかったくらいなんだぞ」  東吾が抱きよせると、るいは子供のように声をあげて泣き出した。 「よせ、お吉や嘉助にきこえるじゃないか」  赤ん坊のように他愛なくなったるいを抱いて、東吾はいささか照れながら、そっと行燈の灯を消した。こうなっては、もうお吉も嘉助も近づかない。  源三郎がおすがを連れて、「かわせみ」へ戻って来たのは九ツ(午後十一時)近くで、るいはさっきとは別人のような機嫌のいい顔で、いそいそと出迎えた。東吾のほうは炬燵で酒を飲みながら、間の悪そうな顔で、親友を迎えた。 「長尾どののところへ行って来ました」  正面から顔をみずに、源三郎はいった。 「明日から、おすがさんは長尾どのの許へ奉公します」  ついては、るいにおすがの身許引受人になってくれないか、と源三郎はいった。 「あたしがですか」 「乗りかかった舟ということで、是非、お願い申します、おすがさんもよろしくということですので……」  るいはどぎまぎして、眼のすみで東吾をみた。 「あたしはかまいませんけど、どなたかさんが、長尾様へ御奉公に出すのは御不服じゃございませんかしら」 「馬鹿、根も葉もないことで焼餅をやかれてたまるか」  親友の前だから、東吾はあけっぱなしな声を出す。 「では、そういうことで……明日、あらためて、手前がおすがさんを迎えに来ます……」  源三郎は笑いながら、早々に帰って行った。  翌朝、おすがは、るいや、「かわせみ」の奉公人達に、世話になった礼を丁寧にのべて、迎えに来た源三郎と出て行った。  後姿がどこか寂しげで、それがるいの心にひっかかった。 「あたし、なんだか、悪いことをしちまったみたい……」  小さく呟いたが、東吾はもう相手にしてくれない。  るいはるいで、それなりに小さな胸を痛めていたのだが、二、三日しての源三郎の報告では、おすがは長尾家で水を得たように生き生きと暮らしているという。 「老婢が、ここ数日の冷え込みで神経痛が痛み出し、それはもう弱り切っていたところだったんです、長尾どのも地獄で仏と喜んで居られました……」  長いこと、大百姓の家をきりもりしていたから、それ相応の分別もあり、学問も行儀作法もきちんとしているし、長尾要は安心してすべてをおすがにまかせている。心配した新太郎も忽ち、おすがになついてしまった。 「あとは、おすがさんの弟夫婦に了解を得ることですが、これはわたしが近い中に千駄ヶ谷まで行って来ようと思っています」  畝源三郎は、あくまでも律義であった。  師走は慌しく過ぎた。 「かわせみ」の宿も、客のあいまを縫って、煤払いやら、畳がえ、障子、襖のはりかえと、猫の手も借りたいほどに忙しい。  餅つきの日に、東吾がやって来た。侍のくせに、肌ぬぎになって嘉助と交替で餅を搗《つ》く。 「知りませんよ、お屋敷へきこえて、お兄さまからお叱りを受けても……」  るいはしきりに気にしたが、これもお吉と交替でこねどりをしている。  その搗きたての餅を大根おろしに醤油をかけ、柚子を搾り込んだのにまぶして食べながら、東吾が思いがけないことをいった。 「長尾どのが、おすがさんを後添えにしたいといい出したんだ」  るいはあっけにとられた。自分の死んだ父親より二つ三つ若いだけだから、五十二、三になっている筈である。  先妻をなくしてから二十年近くも、やもめで通した男だ。 「おすがさんも承知して、実は俺達に仲人をといわれたんだ。ごく、内輪の祝言を初春になったらと申されてね」 「仲人ですって……」 「るいに相談なしにまずかったが、まだ、そんな柄ではないと思ったから、兄上に押しつけた。兄も喜んで引き受けるというし、長尾どのも満足してくれた……」 「そうだったんですか……」  東吾の処置を当然を思いながら、るいは自分でも気がつかないで、寂しい表情になっていた。  まるで夫婦のように、餅を搗き、向い合って飯を食べ、周囲も夫婦として扱ってくれてはいても、正式に祝言をあげたわけではなし、晴れて仲人をつとめられるような間柄ではない。  東吾は、そんなるいの顔色をみてみぬふりで、盛んに餅を食い、その日はなにもいわなかった。  大晦日はよく晴れた。  はやばやと正月の仕度を終えて、るいは居間でぼんやりしていた。  昨年も、その前の年も大晦日の夜、東吾は「かわせみ」へ来ない。  元日の朝は、神林家も兄弟そろって新春を祝い、屠蘇《とそ》をくみかわすであろうし、いくら気儘な次男坊でも、元旦早々、屋敷をあけるわけには行かないとわかっていて、今夜のるいは寂しかった。  東吾と他人でなくなって丸二年、決して飽きも飽かれもしないと信じているものの、女の身では心細さがつい先立った。  東吾は、いつでも「かわせみ」の聟になるといい、場合によっては、るいを嫁にもらってもかまわないという。  その都度、るいは笑って返事をしなかった。  東吾を「かわせみ」の聟にすることは出来ないと思う。  東吾の兄の通之進が、どれほど弟を深く愛しているか、るいは子供の頃からよく知っている。  通之進が弟に家督をゆずるつもりでいる以上、東吾は「かわせみ」の聟にはなれないし、又、してはならなかった。  といって、神林家へ嫁に行くふんぎりもつかない。弟想いの兄が、果して一つ年上の、宿屋の女主人になった女を、喜んで弟の妻に迎えてくれるかどうか、心もとなかった。  身分からいっても、るいの家はもう潰れてしまったし、東吾の家は代々、与力であった。  悲しい眼をして、るいは炬燵に顔を埋めていた。  明日の元日のために、髪も結い、晴れ着に着がえたものの、みせたい人はせいぜい三カ日が終らなければ、屋敷を抜け出せそうもないのだ。 「あの、お嬢さん、長尾様の旦那様が……」  お吉があたふたした調子でとり次ぎ、るいは部屋を出た。  掃き清めた玄関に、長尾要は気さくな様子で立っていた。るいが眼を見はったのは、その背後につつましく新太郎を連れておすががいたことである。 「このような時刻に申しわけございません、あの……年があけませぬ中に、どうしてもお礼を申し上げたいと……」  くちごもり、恥じらって、おすがが長尾要をみた。微笑していた要が、律義に会釈をする。 「すがが、まことにお世話になりました。今少し早くにお礼に参上せねばならぬところ、御用繁多のため、かような日になってしまい、まことに面目なく、新年には改めて御挨拶に参るが、この後とも御昵懇に……」  るいはうろたえた。昔はとにかく、宿屋の女主人に対して、八丁堀の役人が丁重すぎる挨拶である。 「とんでもないことでございます。私のほうこそ御挨拶に参らねばならぬところでございましたのに……」  座敷へと勧めたのに、要は大晦日のことだからと、そのまま辞《さ》ろうとした。 「これは、長尾どの……」  明るい声がして、るいは茫然とした。東吾が、さっぱりした顔で立っている。  改めて、挨拶やら礼をのべて、長尾要は帰って行った。 「まるで、御夫婦みたいですのね」  思いがけず、居間に東吾を迎えて、るいはいった。  親子ほど年が違う筈なのに、長尾要により添ったおすがはしっとりと落ちついて、少しも夫婦であることが不自然にみえなかった。手をひいている新太郎が本当の子のようである。 「新太郎さんもすっかり、なついて……」  かつて、るいが訪ねて行くと、とびついて来た新太郎が、今日はおすがにつかまって、むしろ、るいにはよそよそしい。 「そんなに羨しいなら、来年は産むんだな」  東吾が笑った。 「よろしいんですか、元旦に朝帰りなんて」  るいは慌てて、別のことをいう。 「源さんがいってたぞ。おすがさん、長尾家へ行ってから、一度も寝ぼけないそうだ」  立ち上って、窓をあけた。  凍りついたような満天の星である。 「つまらねえと思ったのさ、夫婦が除夜の鐘を別々に聞くなんて……」  黙って近づいたるいの肩を東吾の手が抱いた。 「おすがさん、お幸せになれるでしょうね」  そのことが、るいの心がかりであった。 「いろいろなことがあると思うんですよ、新太郎さんのことも……もし、おすがさんに赤ちゃんでも出来た時……」 「るいは苦労性だな」  東吾が苦笑した。 「そりゃ、人間、生きていりゃあいろいろあるさ、大事なのは、それをどう乗り越えるかじゃないのか。長尾どのもおすがさんもそれは百も承知と思うが……」  大事なのは、それをどう乗り越えるかで、それは東吾と自分の未来にもいえることであった。  除夜の鐘が、いきなり鳴りはじめた。  東吾の背に寄り添って、るいはうっとりとその鐘の音をきいていた。 [#改ページ]   江《え》 戸《ど》 は 雪《ゆき》      一  夜明け前から降り出した雪が、大川端に漸く積る気配をみせはじめた朝四ツ(午前十時)近く、発《た》とうか発つまいかと迷っていたような萩の間の客が、急にさわぎ出した。 「お金がなくなったそうなんですよ」  係のお君という女中が蒼くなって帳場へ知らせに来て、すぐに女中頭のお吉と、番頭の嘉助がとんで行った。 「いったい、どのくらいお持ちだったんですか」  思いがけないことに、るいも帳場へ出た。  大川端に「かわせみ」という小さな宿屋をはじめてざっと三年になるが、客の金品が紛失したという事故は一度もなかったのだ。 「それが、お嬢さん、五十両ですって……」 「五十両……」 「かわせみ」の宿泊料が一泊四百文ほどである。  物価高で暮しにくいといわれるようになったその頃でも、五十両は大金であった。 「いったい、そんな大金をどこにお置きなすったというの」 「かわせみ」にとって運がよかったのは、その時、ちょうど神林東吾が畝源三郎を伴って、寒稽古の帰り道だといって立ち寄ったことであった。 「なにしろ、この雪だろう。腹の芯《しん》まで冷えちまって、こりゃあ、るいに熱い茶漬でも食わしてもらわないと、とても八丁堀まで保たないと思ってさ」  東吾は帳場へ突っ立って笑っていたが、流石《さすが》に源三郎のほうは本職だから、嘉助の報告をざっときくと、すぐに「かわせみ」の客を足止めするよう命じた。  もっとも、その時刻になると雪も風も強くなって、よほど急用のある旅でもない限りこうした天候の中を発つのは剣呑《けんのん》と、大方の客が腰をすえてしまっている。同宿の客が大金を紛失したことは、お吉と嘉助がすばやく奉公人に口止めをしてしまったから、誰も気づいてはいないようであった。 「今朝、発った客は……?」  源三郎が宿帳をみながら訊く。 「今のところ、二組ございます。お一人は木更津のほうへ行くとおっしゃって……江の島の茶屋、えびす屋の手代で佐吉というお人、もう一組は、こちらは御常連で目黒村の大百姓で彦山平兵衛様とおつれあいで……」  信心のため月に一度、浅草の観音様へおまいりに、江戸へ出てくる。  そこへ、くぐりから、雪まみれの男がとび込んで来た。 「いやあ、ひどい天気になったねえ」  出て行ったお吉に笠を渡し、雪を払っているのが、今朝、出立した客の一人で佐吉という男であった。  中肉中背で、年は三十二、三か、平凡な顔立ちだが、眼にちょっと鋭いものがある。  この吹雪で、木更津へ行く便船が欠航になって戻って来たということであった。 「すまねえが、もうひと晩、御厄介になれますか……」  お吉が心得て、湯を運び、足を洗わせて男を昨夜、泊めた梅の間へ案内して行った。  それを見送ってから、畝源三郎は、るいと一緒に萩の間へ行った。 「この度はとんだことで……当家の主でございます……」  るいが当りさわりのない挨拶をして、源三郎をひき合せた。 「町奉行所のお役人様ですよ」  萩の間の客は老夫婦であった。宿帳に書いたのをみると、神奈川宿で、やはり旅籠屋を営んでいる、はとり屋喜兵衛とその妻のお才という。 「とんだ御迷惑をおかけ致します、私どもの不注意のために……」  夫婦そろって、丁寧に頭を下げた。大金を失ったという衝撃で二人とも疲れ切った表情だが、品のよい、温和な人々にみえた。 「金はどこへおいたのですかな」  畝源三郎は彼独特の丁寧な訊問をはじめた。八丁堀の同心の大方は巻き舌で、鋭い質問を浴びせるのが普通だが、源三郎はよくよくの相手でない限り、かさにかかった言い方はしない。それでなくとも、素人は役人ときいただけで怯《おび》えてしまって、言うべきことを言いそびれ、それが捜査の盲点になることを源三郎は恐れていた。穏やかに、丁寧に話していれば、相手は安心して、こちらの知りたい以上のことを思い出してくれるというのが源三郎の持論である。  物静かな役人の態度に、喜兵衛夫婦は戸惑いながら答えた。 「その……床の間の違い棚の上でございます。振分け荷物と合羽の下に、胴巻ごと……」  別に小出しの金は財布に入れて、懐中し、そっちのほうは被害に遇わなかったという。 「おいたのは、いつですか」 「今朝でございます。昨夜は手前が布団の下に入れておりまして、今朝、起きまして、そこへ……」  ついて来た女中のお君が証人になった。 「確かにお客様が私が布団を片づけに参りました時、そこへ胴巻をおかれました……」  これは、あとでお君がいったことだが、喜兵衛夫婦が、この宿へ着いてから、ずっしりと重たげな胴巻を、どうしたものかと思案しての会話を、お君は小耳にはさんでいる。 「帳場へあずけたほうが……」  と女房がいい、主人が、 「遅いし、はじめての宿だから……」  と、結局、あずけなかった。 「馬鹿にしてますよ、いくら小さな宿だからって、かわせみをなんだと思ってるんだろう」  その話をきいて、お吉は腹を立てたが、実際、帳場へ金をあずかってくれと申し出る客は、そうめったにあるものではなく、まして五十両もの金となると、喜兵衛夫婦がためらったのが、むしろ、当然といえる時代であった。 「二人が二人とも、この部屋を留守にしたことは……」 「年寄で手水《ちようず》が近うございますから……でも、どちらかは部屋に居りましたように思います……ただ、家内の申しますには、私が雪の降り具合をみるために、庭から大川端へ出て居りました時、一度、小用のため、部屋をあけたような気がすると……」 「間違いはないか」  源三郎が訊くと、お才という老女は手拭いを眼にあてた。 「申しわけございません……」  気の弱そうな女であった。自分のほんのちょっとした油断が、とんでもない騒動をひき起したと思い、絶望的になっている様子であった。 「五十両が紛失したことに気づいたのは、どちらが先であったか」 「手前でございます」  喜兵衛が妻をなだめながらいった。 「大川端から戻って来てか」 「いいえ、その時は気づきませんでした。なにしろ、胴巻はそのままございましたし、上に合羽がかけてありましたので……」 「金がなくなっているとわかったのは……」 「雪の様子で、今日は神奈川宿まで帰ることは難しくとも、江戸へ出て参った用事だけは済ませてしまおうと、これと話し合いまして……」  身仕度をしようとして、胴巻の中身がなくなっているのに気がついたという。 「としよりの思い違いということもあろうかと存じまして、女中さんを呼びまして、押入れやら、布団の間やら、これはと思うところはくまなく探しましたが……」  部屋のどこからも、金は出て来ない。 「立ち入ったことを訊くようだが、五十両の金を持って江戸へ来た用事というのを、きかせてもらえないか」  源三郎にいわれて、老夫婦は困惑した顔を見合せた。      二  神奈川宿の旅籠、はとり屋の主人夫婦が五十両もの金を持って江戸へ来たのは、娘の結納金を先方へ返すためであった。 「日本橋本石町に茶問屋で河内屋という大店があります。そこの悴の幸太郎というのが、親父と一緒に昨年茶の買いつけに遠州へ行く途中、たまたま、腹痛を起して、神奈川宿のはとり屋へ泊ったそうです。おきよというのが、はとり屋の一人娘で、十八歳、これを幸太郎が見染めたわけですな」  るいの居間で、やっと遅い午食《ひる》の膳に向いながら、源三郎が話し出した。  東吾も、これは恋人の店の盗難事件を親友が調べてくれているので、先に飯をすますわけにも行かず、とんだ先代萩の千松をきめ込んでいたものだから、源三郎の話はそっちのけのような顔つきで、がつがつ、飯を頬ばっている。 「それで、まとまったんですか……」  給仕をしながら、るいが訊いた。 「昨年の秋に幸太郎のほうから仲人をたてて、正式に縁談をすすめて来た。河内屋というのは、茶問屋としては老舗ですし、あちこちに家作も持っていて裕福な家で、まあ悪い縁ではない。とんとんと話がまとまって、暮に結納として河内屋のほうから五十両が届けられ、年があけたら黄道吉日《こうどうきちにち》をえらんで婚礼という運びになったようで」  ところが、縁談がそこまで進んでから、喜兵衛夫婦は娘のおきよがどうもこの縁組に気が進んでいないのに気がついたという。  それまでは明るく屈託のない娘だったのが、浮かぬ顔をして考え込んでいることが多くなり、果ては食もすすまなくなった。母親が問いつめてみると、どうにも、幸太郎という男が好きになれないと打ちあけた。 「他に好きな人でもあったんじゃありませんか」  るいは女だから、すぐ、そういう気が回る。 「親達も一応、それを考えたらしいんですが、どうもそうでもないらしい」 「だったら、どうして最初っから、いやだっていわなかったんでしょう」 「おきよという娘は、喜兵衛夫婦の実子ではないそうで、お才の姪《めい》に当るのを、子供の時から養女にもらって育てた生《な》さぬ仲で、ま、遠慮があったんでしょう」  自分が喜兵衛夫婦を問いつめて聞き出したことを、逆にるいから問いつめられて、源三郎は苦笑した。 「おきよという娘は何度か、幸太郎に逢ったのか」  やっと、人心地のついたといった表情で東吾が口をはさむ。 「最初に幸太郎が見染めた時を加えて、四回ほど逢っているようです。幸太郎としては、惚れた女の顔みたさに、なんのかのと用事にかこつけて、江戸から訪ねて来たらしい。おきよというのが、十八にしてはしっかりしていて、母親に泣いていうのは、何度か逢って話をしてみれば、だんだん好きになれると思い、その努力もしてみたが、どうにも気が進まない。話せば話すほど気持がくい違って、とても、夫婦になってうまく行くと思えなくなったと訴えたそうです」 「成程、しっかりしているな」  東吾が感心した。当時の縁組の進め方からいえば、見合をするのはいいほうで、殆どは仲人にまかせて、ろくに知りもしない相手のところに嫁に行き、好きもきらいもない中に子供が生まれ、夫婦仲が固まって行くのが当り前で、おきよのような娘は、よくいってしっかり者、悪くいえば生意気な女と嫌われそうであった。 「それで破談にしたんですか」  東吾のために、熱い番茶をいれながら、るいがかすかにため息をついた。 「当人の気が進まないのではかわいそうだと、仲人にも詫びをいれ、あらためて、結納を返し、話を白紙に戻すことになって、喜兵衛夫婦は出て来たそうです」  紛失した五十両はそういう曰《いわ》くのある金であった。 「道理で、昨夜っから様子が可笑《おか》しいと思いましたよ」  炭をつぎ足していたお吉が待っていたように口をはさんだ。 「身なりからいっても貧乏人じゃありませんし、お人柄もよさそうな御夫婦なのに、なんだか落ちつかないし、暗い感じがして、お君さんが帰ってきて、夫婦して眉間《みけん》に皺をよせて考え込んでいるっていうから、まあ、若い人なら心配だけど、あの年齢で、まさか心中もしまいって冗談いってたんですけどね」  結納まで入った娘の縁談をことわりに出て来たというのなら、その心痛ぶりも合点が行くとお吉もうなずいた。 「娘さんがわがままなんじゃありませんか。もらいっ子で好き勝手をさせすぎたかして」  お吉の感想はそんなところだったが、五十両を紛失した客の事情はわかったものの、萩の間を天井から畳の下までめくってみても、金は出て来ない。  こうなると、いやなことだが、泊っていた客達に疑いをむけねばならなくなった。  まず、今朝、早発ちした目黒の夫婦は、出立した時刻よりあとに、萩の間の客が起きたことが、係のお君や帳場にいた嘉助によって確認された。 「手前がお送りしている時に、萩の間でお手が鳴っているとお吉さんがいい、お君さんが布団を片づけに上って行きました」  と嘉助がいい、お吉もお君も記憶に間違いはない。お君が布団を片づけに行った時、喜兵衛は五十両の入った胴巻を違い棚へのせているのだから、目黒の夫婦は疑いの外においていい。  そのあとから出立したのは梅の間の客だが、これは木更津の船が吹雪のため、出なくなったので、「かわせみ」へ戻って来ている。  本来ならば、宿屋の盗難は、そこへ出入りしている岡っ引の宰領にまかせてもよいことだったが、この「かわせみ」の女主人のるいは、元八丁堀同心の娘であり、その恋人の神林東吾は、兄が同じく南町奉行所の与力をつとめている。畝源三郎にしても、縁のある店だから、なまじ岡っ引を呼んで、騒ぎを大きくするよりはと、いやな役目を源三郎がひき受けて、同宿の客の持物改めがはじまった。  幸いなことに当夜の泊り客は少かった。  十組ほど泊められる「かわせみ」の宿で、ふさがっていたのは被害者の萩の間と、梅の間、桃の間、菊の間、楓《かえで》の間、松の間の六つで、 「なんだか、赤丹と青丹の出来そこないのようじゃないか」  東吾が侍らしからぬことをいって笑った。  梅の間が、例の木更津へ行きそびれた佐吉という江の島から来た男、桃の間と、楓の間、松の間は、「かわせみ」の常連でいずれも商用で江戸へ来ていた佐原の醤油問屋の主人達、菊の間は、水戸の医者の悴で長崎へ修業に行く途中の進藤市之助という、これはやはり水戸から商用で江戸へ来る度、「かわせみ」を定宿にしている者の紹介であった。  それぞれの客に、それぞれの部屋を動かぬよう、あらかじめ、注意しておいたので、みんなひっそりと閉じこもっている。  源三郎一人に手間をかけるのも相すまないといい出して、東吾は、この八丁堀の腕ききの旦那といわれる友人のあとから、同心見習のような恰好でついて行った。  どこの部屋でも、まず番頭の嘉助が五十両紛失の事情を説明し、源三郎が役目をもって一応、所持金、持物をみせてもらいたいと鹿爪らしく申し渡した。  客達の所持金は割合、少かった。醤油問屋の主人達が大体十両前後で、これは江戸での用事がすみ、この大雪でなければ、今朝、佐原へ帰る人々だったので、懐具合も、そんなところが常識である。長旅は水戸の医学生だが、これは親が道中の盗難をおもんぱかって、江戸、京、大坂の知人に前もって為替を送り、進藤市之助はそれを訪ねて行っては金を受け取って旅を続けるというやり方にしてあった。彼は昨夜、「かわせみ」に投宿し、今日は江戸に滞在して、父の知人の、為替の送り先を訪ねて金をもらう予定であったのが、これも雪のため、足止めを食って、まだ出かけていなかったから、財布の中には三両ほどしか入っていない。  なんといっても、この四組の客は常連、もしくはその紹介という、いわば身許のはっきりした人々であった。  間取りの順で、源三郎が最後に戸をあけたのが梅の間であった。これは、さわぎの起った時、外出していたせいもあって、まるっきり事情がわからぬまま、部屋から出ることを禁じられたため、ひどく不安そうな様子で一同を迎えた。  嘉助が萩の間の盗難の話をはじめると、佐吉というその男は、蒼白になった。両手を膝においているのが、急に苛々《いらいら》と着物の上から自分の膝小僧を鷲《わし》掴みにしたりする。 「それで、いったい、なくなった金はいくらなんですか」  嘉助が話し終えない中に、問い返して来た。 「萩の間のお客様のお話では、五十両ということでございます……」  今は宿屋の番頭でも、前身は八丁堀の捕方だから、相手の激しい動揺に目をつけた物のいい方になっている。  源三郎が、ちらと東吾をみた。五十両ときいたとたんに、佐吉は唇まで白くなった。なにかいおうとして歯が徒らにがちがち音をたてる。 「なまじっか、かくし立てると、かえって、あらぬ疑いを受けることになる。何事も正直に申し立てるように……」  源三郎は穏やかにいい、嘉助が心得て、部屋のすみの荷物を持って来た。一応、佐吉にことわって包をあける。  三尺手拭に下帯、股引、足袋の替え、湯手拭、薬袋や提灯、蝋燭など、旅をする者なら一応、用心に持つ程度の旅仕度がきちんとたたまれている。財布の中は小銭ばかりで、 「この他に路用の金は……」  源三郎に問われて、漸く座布団の下から胴巻を出した。受け取った嘉助の手つきがずしりとしている。  封を切った小判がきっかり五十両と嘉助が数え上げた時、佐吉が泣くような声で叫んだ。 「俺じゃあねえ、俺が盗んだんじゃねえ、そいつは正真正銘、俺の金なんだ……」      三  佐吉は一応、茅場町の大番屋へ連行された。  大番屋というのは、調番屋ともいい、容疑者の取調べの場所であった。  ここは自身番より建物も大きく、留置する場所もついている。  取調べを受けて容疑が晴れれば放免するし、更に疑わしいとなれば、伝馬町の牢《ろう》へ送られる。  佐吉の場合、五十両の大金を、江の島の茶屋の手代が持っていたこと。しかも、その金の出所が曖昧であったのが、大番屋入りの理由であった。生まれた土地や経歴を訊ねても、彼の答えはしどろもどろである。 「こりゃあ、いけませんね」  大番屋の取調べの結果をきいて来た嘉助が確信を持っていったが、るいはもう一つ、さっぱりしなかった。  世の中には、偶然、同じ金額を持っていたということもあり得るだろうし、金の出所について、いいたくない事情もあろう。 「るいらしくもないな」  東吾が笑った。 「町奉行所が、そんな軽はずみに犯人をきめるものか。八丁堀育ちのくせに、お奉行様を信じないのか」  確かに、どんなに容疑が濃かろうと、証拠が上っていようと、当人の自白なしに裁決が行われないのは、奉行所の鉄則であった。  まして、佐吉の場合、証拠はないに等しい。  たまたま、盗難にあったと同じ金額の金を持っていたというだけである。無論、当人は最初から犯行を否定している。  しかし、状況は極めて悪かった。  佐吉が江戸へ出てくるまで奉公していたという江の島のえびす屋へ問い合せてみると、間違いなく、佐吉はそこに二年奉公していた。  ただ、彼は奉公先を無断で出奔していたものだ。  とび出したのは、ちょうど「かわせみ」へ投宿する前夜で、その理由は主人側からは全く思い当らない。 「大変、真面目によく働いて居りました。けれども、昔のことがございますので、当人は私どもの気づかないところでつらい思いをしていたのかも知れません」  佐吉の主人であるえびす屋吉右衛門は、昔のこと、という部分については、自分からは申し上げにくいので、芝金杉通りの伊勢屋仙八というのが、佐吉の身許引受人で、そこから頼まれて手代にしたのだから、そっちで訊いてもらいたいという返事であった。 「実は思うことあって、この事件をあまり公けにしたくないのです。申しわけありませんが、金杉まで行って、伊勢屋仙八を訪ねてみてくれませんか。わたしはもう一つ、行って来たい場所があるのですよ」  源三郎にいわれるまでもなく、東吾にしても一日も早く、この事件の埒《らち》をあけたかった。  佐吉を除く、当夜の客は翌日、それぞれに出立して行ったが、喜兵衛夫婦は、まだ「かわせみ」に居た。  容疑者になった佐吉のことも気がかりらしい。喜兵衛夫婦は佐吉を犯人のように思えないと重ねていった。  萩の間と梅の間は部屋同士がはなれていた。  廊下を幾曲りしなければならない遠くの部屋に泊った人間が、ほんの僅かの間に自分達の金を盗んで行くのは可笑しいと喜兵衛はいう。 「そりゃ、本職の盗っ人ならとにかく……手前どもは、その前夜、こちら様へ入りましてから、廊下のすれ違いにも、佐吉さんというお人とは逢って居りません。みず知らずのお人が、どうして、私どもの金に目をつけますものか……」  喜兵衛の主張は通らなかった。遠いといっても、小さな「かわせみ」のことである。廊下の行きずりに、ふと出来心で忍び込んだ部屋がたまたま喜兵衛達の泊っていた萩の間であったかも知れないのだ。  本職の盗っ人なら、すれ違いに、これは大金を持っていると看破して、つけねらうということがあるかも知れないが、素人ならあてずっぽうに、相手がどんな人間かわかりもしないで盗みに入るだろう。  そう、嘉助やお吉が説明しても、喜兵衛もお才もうなずかなかった。 「同じ夜に泊り合せた為に、お気の毒なことになってしまいました……」  お才はそういって涙をこぼしている。  喜兵衛夫婦が江戸を発てないわけはもう一つあった。 「河内屋さんが、破談にすることを承知してくれないのでございます」  盗難事件の翌日、夫婦は日本橋の河内屋を訪ね、主人の幸兵衛と悴の幸太郎に逢い、金を紛失したことを話し、とりあえず結納金を返すのを、もう半年ほど待ってもらいたいと頼んだ。  河内屋は立腹した。 「結納まで入った縁談を白紙に戻せ、結納金を返すのは半年先にしてくれ、そんな勝手な言い分が、どこの世界で通用するものか。手前どもの世間体というものも、少しは考えて下され」  惚れた女にふられた口惜しさもあるのだろう。顔を潰された、店の信用にもかかわるといわれ、五十両の結納金がすぐ返せないのなら、おきよを今月中によこせと無理なことをいい出した。 「こうなっては、河内屋の嫁には出来ません。五十両が返せるまで、おきよさんに女中として奉公してもらいます。悴にもやりたいようにさせて恥をそそがせてやりますから……」  一人娘を女中によこせ、きずものにして返してやるとまでいわれて、喜兵衛夫婦は怒りで蒼ざめたが、五十両の借りがあっては、なんにもいえない。 「お恥かしいことでございますが、こちらさまと違って、手前どもは田舎の小さな宿屋でございます。おまけに昨年、家内が大病を致しまして……なにやかや、物入りが続き、五十両というまとまった金は、とても工面が出来ません」  店を処分する気になれば出来ないわけでもないが、 「それでは、この先、親子三人、どうやって食べて行ってよいか……」  喜兵衛は途方に暮れている。 「そりゃあそうですよ。うちだって、五十両、いきなり耳をそろえて出せといわれたって、どうしていいか……」  実際、もし手許に五十両あったら、るいの気性としたら、すぐにも用立ててやりたいと思っている。宿屋稼業が軌道に乗ったといっても、少しまとまった金が出来れば、大工を入れたり、布団を新しくしたり、皿小鉢のいいものを揃えたり、商売にはいくらでも金をかけたくなってしまうるいであった。  やりくりに余裕はまず、ない。 「ようございます、もともと、うちで起ったことなんですから、あたしがお詫び旁々《かたがた》、お願い申しに行って来ましょう」  勝気でお節介なるいのことで、早速、お吉をつれて、河内屋へ行った。  成程、老舗らしく店がまえも重厚で、かなり金を貯めている感じがある。  主人の幸兵衛は不在で、息子の幸太郎というのに逢ったのだが、挨拶をしている中に、るいは、この男を、喜兵衛の娘おきよが嫌ったわけがわかるような気がした。  容貌はいわゆる美男に属するのだろう、のっぺりした色男で、器量を鼻にかけているだけでも、虫酸《むしず》が走るようなのに、話すことは一々、るいの癇にさわる。こんな大店の跡つぎにしてはおっとりとしたところが少しもなくて、いうことがえげつなく、けちで如何にも欲が深そうであった。  大体、仮にも惚れた女を、いくら破談になって、可愛さ余って憎さが百倍か知らないが、女中にした上、おもちゃにしようなどとは、男の風上にもおけないと、るいは腹が立った。 「とにかく、お取調べ下さいましたのは、八丁堀の畝源三郎様でございますから、もし、なにか御不審がございましたら、お問い合せ下さいまし」  客が金を盗まれるのは、宿の責任だといってみたり、果ては、喜兵衛が結納金を返したくないばかりに、狂言をうったのだなぞといい出すので、るいはたまりかねて、きっぱりいってやった。 「あきれちゃうんですよ、あたしがお嬢さんのあとから、店を出ようとしたら、番頭が呼びとめて、お宅は八丁堀となにか、かかわりがあるのかって訊くじゃありませんか。どうぞ、お出入りの親分にでもおききなさいましっていってやりました」  お吉はそれで胸がすっとしたらしかったが、るいは自己嫌悪に襲われている。 「女って駄目ですね、自分の力じゃどうにもならないと、畝様のお名前を引き合いに出して……とんだ虎の威を借る狐ですよ」 「そういうしたたかな奴なら、俺がついて行ってやればよかったな」  女二人とみくびって雑言を浴びせたのだろうと、東吾はるいが不愍《ふびん》になった。口ではわけ知りのようなことをいっても、世間馴れない、お嬢さん育ちのるいである。 「でも、本当にひどい男……おきよさんが断るのが当り前ですよ。こっちに弱味がなけりゃ、ひっぱたいてやるところだった……」  東吾に慰められて、るいはすぐに向うっ気の強い八丁堀育ちに戻ったようである。  その晩、るいの部屋に泊った東吾に、翌日、嘉助が笑いながら告げた。 「本石町の巳之吉という岡っ引がききに来ましたよ。河内屋の旦那から、大川端のかわせみって宿屋は八丁堀とどういう関係にあるのかって訊かれたから、あそこの主人は、もと八丁堀の旦那のお嬢さんだった人だといったら、蒼くなって慄えていたが、河内屋がなにか馬鹿なことでも仕出かしましたか、といいましてね」  勿論、嘉助のほうが上手《うわて》で、とぼけて岡っ引を煙に巻いて帰したらしい。 「ま、それがわかれば河内屋も、そううるさく喜兵衛夫婦を責めまいが、五十両を返さないことには、埒はあかないからな」  その日、東吾は源三郎に依頼された、芝金杉通りの伊勢屋を訪ねるつもりであった。  それをいうと、るいはさっさと仕度をして、東吾について出た。  よく晴れて、風の冷たい日であった。雪はもうあとかたもなくなっていたが、道はまだぬかっている。  伊勢屋仙八というのは蕎麦屋だった。  なかなか流行っている店らしく、活気が内から溢れてくる。 「どうだ、腹ごしらえを先にしようか」  るいの返事を待たずに、店に入った。るいは仕方なさそうに笑いながら、東吾のあとから店へ入って、お高祖頭巾をとった。  相変らずの薄化粧に地味な身なりだが、そこは女心で、好きな男とたまに外へ出るのだからと、髪かざりや、着物の色目にはいつもより神経を使っている。それでなくとも、目に立つ美貌が、このところ東吾に開花されたように瑞々《みずみず》しくなっている。店の客が暫く、るいの顔から視線がはずせなくなっているのに気がついて、東吾はその連れであることが少々、照れくさかった。  もっとも一方はれっきとした武士で、女はみるからに町方風だから、連れとしてはなんとなく、ちぐはぐに違いない。人の好奇心もそうしたところに集っていると思われるのに、東吾はそういうことには頓着しない。種物を食べ終る頃には、この店の主の仙八がどの男か、およそ見当がついた。  大きな蕎麦屋で職人もいるのに、主人自ら釜場に入って働いている。髪がてっぺんから薄くなっていて、小男だが、眼にやさしいものを持っている。  時分どきをすぎて、客が少くなったところを見計らい、東吾は立って行って主人に声をかけた。思った通り、それが伊勢屋仙八で、 「手間をとらせてすまぬが、江の島のえびす屋に奉公していた佐吉のことについて……」  少々訊ねたい、というと、仙八は東吾をみつめ、勘定を払っているるいに眼をやって、すぐ自分で奥へ案内した。  冬の陽のよく当っている座敷で、風も入らず、主人が運んで来た手焙《てあぶり》も不要なくらいである。 「失礼でございますが、あなた様は……」  下座へまわって、しっかりした口調で訊く。  東吾がなんと答えるかと、るいは胸を轟かしたのに、大川端の「かわせみ」という宿の女主人とその亭主だと、あっさり名乗ったのには、暫く口もきけないほど驚いた。  仙八は穏やかな眼で、赤くなってしまったるいをみつめ、まるで悪びれもしない東吾をみて微笑した。 「佐吉が、なにか人様から誤解を受けましたでしょうか」  間違いをおこしたか、と訊かず、誤解を受けたかと問うたところに、東吾は心を惹かれた。これは佐吉を信じている言葉であった。 「かわせみ」での紛失事件を話すと、仙八は眉をよせて、庭をみつめた。雀が日だまりで盛んに囀《さえず》っている。 「それは、まずいことになりましたな」  一通り、話をきいて、それでも仙八の顔から穏やかなものが消えていない。 「まさか、佐吉は五十両を自分が盗んだと申しているわけではございますまい」 「博奕でとった金だといっている」  江の島詣での客を鴨にした賭博が、お上の眼を盗んで、料理屋や土産物屋の奥で行われることがある。本職の博徒や渡世人は関係せず、いわゆる素人の手なぐさみで、賭ける金も知れている。 「佐吉がいうには、江の島へ行って二年、ただの一度も骰子《さいころ》に手を出したことはない。それが、たまたま、店の客が手なぐさみに出かけていたのを迎えに行き、はじめて勝負をみたそうだ」  その夜は珍しく、大きく賭ける客が何人もいて、素人博奕にしては派手な勝負が続いていた。  佐吉が迎えに行った客は、ちょうど負けがこんでいて、験《げん》なおしに少しだけ交替してくれといわれ、ことわり切れずにすわってみると面白いように、つきがまわり出した。夜明けまでに、かわってやった客の負けた分をとり戻した上に、ざっと六、七十両近くの金を手にした。  胴元に礼をして祝儀をおいて、それでも残った五十両余りを、客は、お前さんが儲けた金だからと、そっくり渡してくれた。 「それでわかりました……」  仙八が声をふりしぼった。 「おっしゃらずとも、あいつの気持はわかります。思いがけない大金を手にして、あいつは木更津の母親の顔がみたくなったに違いありません」  佐吉の母親が木更津にいる。 「あいつが間違いを起してから、佐吉の姉の嫁ぎ先が木更津でございまして、そこへひきとられて行きました」  それまでは、佐吉と母親はこの町内に住んでいたという。 「佐吉の親父は腕のいい大工でしたが、あいつが赤ん坊の頃、風邪をこじらして死んじまいました」  母親が賃仕事をして女手一つで、二人の子を育てたのだが、子供の頃の佐吉は随分、つらい思いをしたようだと仙八はいった。 「貧乏人とは情ないものでございます。子供同士、遊んでいて、なにかが失くなる。まず、疑われるのが貧しい子供でございましょう。父親のいる子なら、親が子供の無実を晴らすために、どなり込むことも出来る。父のない子は、かばってくれるものがない。いじめられっぱなし、疑われっぱなしでございます」  佐吉が五十両を博奕で儲けたというのは、おそらく本当だろうと仙八はいった。 「けれど、お上のお調べが進むにつれて、佐吉の立場は悪くなります。手前にはそれがよくわかるのでございます」  江の島の地元では、素人賭博の件をかくすだろうと仙八はいう。 「手なぐさみをなさる旦那方とは、講中の方でございましょう。講中で成り立っている土産物屋や料理屋が、名前を明かすわけもございませんし、第一、お上に内緒で賭博を開いたとばれたら店がおとがめを蒙りましょう」  まず、そんなことはなかったといい張るだろうし、然るべき筋には、ちゃんと金がまわって、博奕のことは口が封じられてしまう。 「なかった賭博で、佐吉が五十両儲けるわけがございません」  それは仙八のいうとおりであった。畝源三郎の調べが、ほぼ、同じ結果になっている。 「悪いことに、佐吉には前科《まえ》がございます」  るいが小さく声をあげた。 「三年ほど前でございます。名前はどうぞ御勘弁下さいまし。この界隈の大店の総領で、少々、出来の悪いのが居りまして、佐吉の好きだった娘に手をつけました」  たまたま、その娘は、その大店へ女中奉公をしていたから、若旦那のお手がついて身ごもったことになった。 「そこの主人は、金で女と手を切って、生まれた子は里子に出され、女は在所へ帰されました」  そういうことがあって間もなくの祭の夜、酒の上で、その若旦那と佐吉が喧嘩になった。  若旦那が逃げまわったので、佐吉は神酒所や素人の家にまでとび込んで、荒れ狂い、仲裁人にまで怪我人が出た。 「どさくさでございます。その若旦那は町内の嫌われ者ですから、面白がって叩いた者もおそらくございましょう。仲裁人の怪我だって、野次馬が手を出さなかったとは申せません」  酒は入っているし、祭に喧嘩はつきものだ。  佐吉は捕えられて、調べの上、江戸払いに処せられた。  江戸に居住を禁じられたわけである。 「手前は佐吉を奉行所の前まで迎えに参りました。江戸では働けませんので、手前の知人の世話で江の島のえびす屋へ奉公することがきまって居りまして、仕度をさせるために、町内へ連れて戻りました。そこの金杉橋の上で、あいつにこんな話を致しました」  罪を犯して遠島になる者は、金杉橋の際と、永代橋際から島送りの舟に乗せられる。永代橋際から出る舟に乗る者は、一生、島から帰って来られない者で、金杉橋のところから乗るのは、月日がたてば、いつか江戸へ帰って来られるあてのある者であった。 「下をみれば、きりがない、と手前は申しました。永代橋から舟に乗る罪人には、さぞ、金杉橋から乗る者が羨しかろう。遠島になる人のことを思えば、江戸払いですんだのはまだ運がよかったと思わねばならない。そう佐吉に申しました。自分を運が悪いと思ってはおしまいだ、もっとひどいことになったかも知れないのに、ありがたい、よかったと感謝する気持があれば、きっとやり直せる。人間の一生を島送りの船に乗るか、苦しくともお天道さまのおかげを蒙って生きるか、ここが境目だと話しました」  仙八はそっと涙を拭いた。 「お前が生まれたのは、お前一人の力じゃない。苦労して産み、育ててくれた両親、その両親を産んでくれた先祖のことを考えたら、命一つ、粗末にしては申しわけがない。この先お前にどんなことがあっても、必ず、お前を信じている者が、この世に三人いる。お前のお袋と姉さんと、俺だ、と申しました」  別れるまで、仙八は佐吉の無実をいい続けた。 「盗っ人は、きっと他にございます。どうか、お調べ直しを願います」  外まで送って来て、眼をまっ赤にしていった。 「もし、どうしても、佐吉の疑いが晴れず、あいつが罪人になりました時は、あいつにどうぞお伝えを願います。伊勢屋の仙八は、お前を信じている。お前は盗っ人じゃない、地獄の底へ落ちても、お前を信じている、と伝えてやって下さいまし」  西陽を背にした小柄な老人の顔に激しい怒りがあった。人間の力でどうしようもないものへの、やり場のない怒りと寂しさが、ぽつんと立っている老人を更に小さくみせていた。      四 「あたしも、佐吉さんが盗ったんじゃないように思うんですよ」  帰り道、辻駕籠をみつけるまでの道中で、るいがいった。佐吉を信じているといい切った、赤の他人の老人の声は、東吾の耳にも残っている。  佐吉が怯えたのは、賭博で得た金という後めたさと、江戸払いの人間が旅といっても江戸の宿に草鞋をぬいだのがばれるのではないかという不安のためだったとはわかったが、さりとて、他に盗っ人がいたとは到底、考えられない。 「今度は江戸払いではすみませんね」  るいが低くいった。  十両盗めば、首がとぶといわれた時代である。実際、盗みは他のどんな罪より刑が重かった。 「五十両、なんとかしますよ。人の命にはかえられませんもの……」  るいは必死で金の調達を思案している。東吾は笑った。 「五十両は、俺がなんとかする。心配するな」 「いやですよ、お兄上様に御迷惑をかけるのは……」 「兄にいわなくとも、そのくらい、どうにかなるさ。次男坊の冷飯食いだと思って、俺を馬鹿にするな」  冗談らしく叱りつけた。るいは小さくあやまって、しょんぼりしてついてくる。  亡父の形見の脇差を売ってもよい、と東吾は考えていた。  それで人一人の命が買えるなら、八丁堀育ちの亡父は笑って許してくれるに違いない。  大川端へ帰ってくると、 「喜兵衛さんの娘さんが来ているんですよ」  お吉が告げた。  若い娘がたった一人、神奈川宿から旅立って来たのだという。 「萩の間でずっと話込んでいますけど……」  挨拶に行ったものかどうかと、るいが思案していると、おきよというのが帳場へ出て来た。色の浅黒い、眼鼻立ちのはっきりした、みるからにかわいい娘である。 「この度は、父と母が大変、御迷惑をおかけ申しました」  板の間に手を突いて、深く頭を下げた。折入って、お願いがあるというので、るいは居間へ案内した。 「あの……五十両、出て来たということにして頂けませんでしょうか」  いきなり、いわれて、るいは面くらった。 「そうすれば、佐吉さんというお方を、お助け出来ますね」  娘の眼がきらきらしている。 「そりゃあ、疑いが晴れれば……」 「佐吉さんは盗んでいません。それは、わかっているんです」 「どうして……」  娘は唇を結んだ。 「佐吉さんをご存じなんですか」 「いえ……でも、あの方は盗んでいません」 「お金の工面が出来たんですか……」  るいは、ほっとしていった。もし、喜兵衛のほうに金の工面が出来たなら、ここはなんとでも、畝源三郎に才覚してもらって、佐吉を大番屋から出してもらえばよい。 「私、河内屋の女中奉公に参ります」  おきよがさわやかにいった。 「今度のことは、私が悪いのです。私のわがままから出たことです。父にも母にも罪はございません。まして、佐吉さんには……」 「いけませんよ」  るいが慌てた。 「あたし、幸太郎さんというお人に逢いましたよ。こう申しちゃなんですけど、お嬢さんがことわるのが当り前……あんな男のおもちゃになっちゃいけません」  娘が微笑した。 「親のためなら、身売りをする娘だっています。あたしは親のためじゃありません。自分でまいた種を自分が刈りとるだけなんです。当り前のことです」 「でもね、お金はやっぱり佐吉さんに盗られたかも知れないんですよ」  たまりかねて、るいはいった。金杉の仙八は信じているといったが、人間、神様ではなし、ひょっとして魔がさすということがないわけではない。 「いえ、佐吉さんはとっていません」  東吾が、口をはさんだ。 「五十両は最初から、なかったんだな」  娘が小さく叫び、るいは絶句した。 「喜兵衛は最初から五十両、持って江戸へ来たのではないんだ……」 「だって、東吾さま、お君が胴巻を……」  重い胴巻を女中が何度かみている。 「中身は石だな。おそらく、喜兵衛が捨てたのは、雪の様子をみに、大川端へ出た時だろう」  足音が廊下にした、嘉助が息をはずませている。  喜兵衛夫婦が萩の間で首をくくろうとしたという。 「手前が外から見張って居りましたので……大事には至りませんが……」  おきよがかけ出した。喜兵衛夫婦は部屋の真ん中に腰をぬかしたようになっていて、お吉と女中が二人をおさえつけている。  抱き合って泣き出した親子を、東吾とるいは、なだめるのに骨を折った。  喜兵衛は米相場に手を出して失敗していた。  もともとは娘のために、まとまった金を儲けたくて、誘われるままに金を注ぎ込んだのが駄目になった。気がついた時は、結納の五十両にも手をつけていた。そうなってから、おきよが幸太郎を嫌っているのに気がついたのである。 「破談にはしたし、金はなし……で思いつめて田舎者の夫婦が一芝居うった……」  金を盗まれたといえば、河内屋が返金を待ってくれると考えたらしい。 「人がよすぎるんだ。芝居だって作為がなんにもないから、かえって、こちらが騙された」 「かわせみ」の盗難事件は闇から闇へ葬られた。  佐吉は容疑が晴れたということで、大番屋から畝源三郎がつれて、「かわせみ」へ帰って来た。その前に、おきよと親夫婦が手を突いて、泣きながら詫びた。 「すみません、堪忍して下さい、お父つぁん、おっ母さんが悪いんじゃない、あたしが……あたしが馬鹿で……」  泣きじゃくるおきよと、その娘を抱いて嗚咽《おえつ》する老夫婦を、佐吉はみつめていた。おきよが貰いっ子で、その縁談のこじれたわけも佐吉は畝源三郎からきかされていたらしい。  やがて梅の間へ佐吉は戻った。ちょっと、おかみさんに来てもらいたい、と女中にことづけて来た。  るいの前に佐吉は番屋で返された五十両をさし出した。 「こいつを、あげて下さい」  五十両がなければ、おきよは河内屋へ行くか、喜兵衛は家財を処分しなければならない。  親のほうは無一文になっても、娘を河内屋へはやらぬといい、おきよは老いた親に苦労をさせまいと、河内屋へ行く気になっている。 「博奕でとった金なんです」  考えてみると、そんな金を持って母親に逢いに行っても、親が安心するわけがないと佐吉はいった。 「俺が間違っていました。俺のことを信じてくれる人がいるのに、俺は誓いを破って、賭け事に手を出して、結局、命とりになるところでした」  八丁堀の旦那は、お前は運が悪かったといってくれたが、自分では運がよかったと思っていると佐吉は嬉しそうにいった。 「もし、五十両の金を持って、木更津へ行ったら、むこうで疑われたかも知れません。親切なお役人や、おきよさんのような人のいるところで、こうなったのは、なによりだと思います。もし、こんなことにならなかったとしても、俺は賭け事で身を滅ぼすことになったかも知れません」  これで、もう二度と賭け事に手は出すまいと思ったし、こうして疑いも晴れた。 「五十両はなかったものと思って、おきよさんのために用立てて下さい」  金が生きる、と佐吉はいった。 「お袋にはすまないが、もっと働いて、汗のこもった金を来年の正月には一両でも、二分でも送ってやりたいと思います」  この男の眼から鋭いものが消えていた。どこかに影をしょったような感じが、ぬぐったようになっている。  るいが中に立って、五十両はおきよの手に渡された。 「そんなことをして頂いては……」  おきよは驚き、辞退したが、佐吉は微笑した。 「なんといっていいか、同じ親なしっ子なのに、あんたのように、明るく、いい娘さんに育った人もいる。育ててくれた人がいる。なんだか、他人のことながら嬉しくなっちまって……」  いってみれば、心祝いだと佐吉はいった。 「俺のお袋も、きっと喜んでくれると思うんでね……」  自分も母親も人様からあったかい心をもらいっぱなしで今日まで生きて来た。 「たまには、お返しが出来ねえと、俺もお袋も肩身がせまいような気がします……」  るいと東吾のとりなしで、結局、喜兵衛はその金を河内屋へ返した。畝源三郎が老夫婦の後見人になって、きっぱり破談にし、今後一切かかわりなしと、にらみをきかせて来た。 「お金は必ず、お返しします。春には必ず、江の島のえびす屋をおたずねしますから……」  おきよが、佐吉にすがらんばかりにいい、老夫婦は合掌した。 「冗談じゃありませんよ、このさわぎで商売は上ったりだし、お客様には迷惑をかける。おまけに、うちで首なんぞくくられたら、その部屋は気味悪くて使えやしなくなるところだったんですよ。本当に初春から縁起が悪いったらありゃしませんよ」  お吉はぽんぽん文句をいったが、るいは東吾によりそって、甘い声で呟いた。 「佐吉さんって人、五十両はなくしたかも知れないけど、今度は本物の運を拾って行ったような気がしますよ」  二組の客が「かわせみ」を発って行った翌朝、江戸は又、銀一色の雪景色になった。 [#改ページ]   玉《たま》 屋《や》 の 紅《べに》      一  前夜から滞在しているその若夫婦を、「かわせみ」の宿では、まるで似合いの夫婦|雛《びな》のようだと噂していた。  身許ははっきりしていて、佐原の造り醤油屋の若旦那とその女房で、名は清吉とおたよ。 「やっぱり、ほやほやの御夫婦でしたよ。お式のすんだ翌日に佐原から出て来たそうですからね」  夫婦そろって江戸へ出て来たのは、無論、取引先の江戸の醤油問屋へ商用があってのことだが、一つには嫁をとって正式に家を継いだ挨拶も含めての旅であった。 「かわせみ」では、若い夫婦者の客の場合、女中はなるべくお吉のような老練の女中を部屋付きにするよう心がけている。そのほうが、客もよけいな気を使わなくて済むし、とかく、客が若いと面倒が起りやすいということもあった。  果して泊った翌朝、若女房のほうが早起きして、井戸端で寝衣にしたらしい持参の浴衣や肌着などを洗っている。 「初夜だったんですよ」  お吉がそっと、るいに報告した。 「洗って差し上げましょうっていったんですけれど、きまり悪がっておいでだし、それもまあ、ごもっともなことですから、盥《たらい》と干し場をお教えしましてね……」  場馴れたお吉は笑っていたが、るいは自分のことのように背筋から赤くなってしまった。  神林東吾と他人でなくなった夜明け、るいも、お吉の眼を避けて、自分の肌についたものを洗った思い出がある。  女なら一度は迎えるその時が、萩の間に泊った若い女にとっては昨夜だったということが、るいにはひどく生々しく感じられた。  その若夫婦は午すぎまで部屋に籠っていた。  旅の疲れもあろうし、昨夜が文字通り、夫婦になった最初なら、それも無理からぬことと、お吉も気をきかせ、呼ぶまでは誰も近づかないよう粋をきかせていた。  午をすぎて、夫婦はそろって出かけて行った。それが、取引先の醤油問屋への挨拶のためで、先方はこの夫婦を揃って、その夕べ、深川の料理屋へ招待してくれたという。  駕籠で送られて、若夫婦が帰って来たのが九ツすぎ、男のほうはかなり酔っていたが、おたよという若女房はしっかりしていて、送って来た駕籠屋にこころづけを渡したり、出迎えたお吉や嘉助など、この宿の奉公人にも丁寧に挨拶をし、夫を助けて萩の間へ入った。  深川の芸者で、紋次というのが若夫婦を訪ねて来たのは、ほんの一足違いで、 「佐原の造り醤油屋の若旦那で清吉さんとおっしゃる方がお泊りでござんしょう」  自分はたまたま、他の座敷に出ていて御挨拶が出来なかったので、一言、お嫁さんをお迎えなさったお祝いを申し上げたくてやって来たというのを、もし、お吉か嘉助がいたら、そのまま鵜呑みにして部屋へ案内することはなかったのに、たまたま、別の泊り客が持病の癪を起して、医者よ、薬よと大さわぎをしている最中で、若い女中が、うっかり紋次という芸者を萩の間へ連れて行ってしまった。  声をかけて、障子をあけて、女中も仰天したのは、行燈の明るい灯の中で、夫婦がもう抱き合って睦み合っていたことである。  帰った時刻から考えても、女房が着がえのために長襦袢になったところを夫が挑みかかったという恰好で、女中は慌てて障子をしめたが、紋次はその女中を突きのけて、再び障子をあけ、あっという間に部屋へ踏み込んで、まだ女房の上にかぶさっている男を蹴とばしたという。  帳場へ女中がとんで来て、嘉助とお吉が萩の間へかけつけ、剃刀をふりまわしている紋次を難なくおさえつけた。幸い、若夫婦に怪我はなかったが、女も男も素っ裸に近い恰好で、 「まあ、なんていうんでしょうかねえ、近頃の若い人はせっかちっていうのか、慎みがなさすぎるっていうのか……」  お吉がのぼせた顔であきれかえった。  事件は表沙汰にしたくないが、といってこのまま、捨ててもおけないことなので、普通なら岡っ引で気心の知れているのを頼むところだが、「かわせみ」の場合は一足とびに嘉助が八丁堀へ走って、畝源三郎の役宅へ行く。  源三郎はちょうど町廻りから帰ったところで、これは心得て嘉助を先へ帰し、自分は同じ八丁堀の与力、神林通之進の屋敷へ寄って、東吾を呼び出した。  このところ、通之進が風邪をこじらせて、病臥して居り、そのため、東吾が屋敷を出にくくなっているのを、源三郎は知っている。 「ちと、悪友がそろいましたので、東吾どのを誘いに参りました……」  源三郎が鹿爪らしく、通之進の妻で、東吾には義姉に当る香苗に断っている中に、東吾は、もうさっさと玄関へ出ていた。  源三郎を送って出て来た香苗が、 「兄上様が、これをあなたさまにと仰せられました……」  ちょっと重い袱紗《ふくさ》包を渡してくれる。 「金ですか……」 「たまには気晴しをしてお出でなさいませとおっしゃって居られます」  香苗は可笑しそうに、恐縮して出て行く東吾を見送っている。 「かわせみに、なにかあったのか」  外へ出ると、東吾は金包を懐中しながら、気遣わしげな眼をした。 「おるいさんが、だいぶすねて居られるのではありませんか、なにしろ半月もお見限りときいていますからね」 「馬鹿いえ、こっちだって出られなくてやきもきしていたんだ」  二、三日前から漸く熱が下ったが、通之進はずっと高熱が続いて食欲もなく、香苗も東吾も気が気でない日が続いていたのだ。  そのことは「かわせみ」にも知らせてやっているし、るいからはお吉を使いにして、連日、白身の魚をすりつぶして作った団子汁だの、生きた鯉だの、こまごました見舞の品が届けられている。 「実は、泊り客に間違いがありましてね」  冗談を訂正して、源三郎は大川端へ着くまでに、ざっと嘉助の報告を東吾へ話した。 「かわせみ」へ着いてみると、若夫婦は萩の間へひき取って、こっちはお吉が張り番に立ち、紋次はるいの部屋で泣きながら話をしている。  逆上がおさまって、蒼い顔におくれ毛が乱れて額や頬にこびりついているのが、凄惨な印象を与える。 「申しわけございません。畝さま」  源三郎を出迎えに立って来たるいが、東吾をみて、眼を丸くした。 「よろしいんですか、お兄さまの御病中に……」 「おかげで、熱が下ったんだ、お前がことづけてくれた鯉の生き血が効いたらしくて、あの晩から……」 「よかった……」  人眼がなければ抱き合いそうな二人を横眼にみて、源三郎は早速、紋次の前へすわった。  今夜は、いわゆる定廻りの旦那の服装ではなく、着流しは、この春、るいが気を使って、東吾と同じように仕立ててくれた薩摩絣に白献上の帯、勿論、朱房の十手はどこにも持っていない。 「今も、話をきいていたところなんですよ、いつの世でも、悪いのは男、おもんさんが、口惜しがるのも無理じゃありません」  るいが慌てて言葉を添えた。  紋次、本名はおもん、二十九という年は、芸者としても、女としても、いささか独り者ではつらい時期である。  萩の間の客である清吉とは、もう十年になる間柄で、最初はやはり商用で江戸へ来ていた清吉が取引先の若い者と深川へ遊びに来て馴染になった。  十年といっても、佐原の造り醤油屋からは年に数回、醤油を運んで来る船に同乗してくるか、もしくは集金、取引のため江戸へ出てくる時に逢うだけだが、おもんにしてみれば、清吉を男にしたのは自分だという自負もあるし、清吉の江戸妻のようなつもりもあったらしい。年も女のほうが三つ上で、その分だけ、女のほうが惚れ切って、身銭《みぜに》を切って尽してもいたという。 「そりゃ、あたしだって、いつかは清さんがお嫁さんをもらうかも知れないとは思ってましたよ。あの人はあたしに佐原へ連れて行って嫁にするともいいましたし、女房にしてやるともいいました。でも、いくら、あたしだって、すっかり本気にしていたわけじゃありません。ただ、これだけはいいました。佐原でどんな女を嫁にしてもかまわない。そのかわり、嫁をもらう前に、あたしに江戸で一軒、家を持たせて、芸者勤めをやめさせておくれ、この年でいつまでも証文に縛られているのは恥かしいし、傍輩《ほうばい》の手前もあるから、とにかく、清さんの江戸の女房にしてもらいたい。あたしは清元でも教えて、あんたが江戸へ来るのをたのしみに待っているからって……固い約束をしたんです。清さんはそんなことはお安い御用だっていうし、あたしもみんなに喋っています。それなのに、あたしに一言の話もなく、いきなり、女房を連れて江戸へ出て来て……あんまりじゃありませんか。あたしは恥かしくて二度とあの土地で働けやしませんよ」  体を慄わせて口惜しがるおもんをなだめて、源三郎は、清吉だけを帳場の奥へ呼んで話をきいた。  成程、女に惚れられるだけあって、役者にしてもいいような男前だし、水郷育ちで体もたくましい。背が高く、手足も大きくて男くさいのも、おもんのような女が離れられなくなる要素の一つになっているのかも知れなかった。  が、清吉のほうは、おもんをまるで相手にしていなかった。 「そりゃ江戸へ来た時、何度かあいつと遊んだのは嘘じゃありません。けれど、そいつは色の恋のというんじゃなくて……」  あくまでも、むこうは商売、こっちは客だと、清吉はいい張った。 「男ですから、つきあいで遊びにも行きます、女を買うことだってないとはいえません。ですが、そんな相手にまさか女房をもらったといって刃物三昧されるとは夢にも思いませんでしたよ」  女房にするといったおぼえもなければ、芸者をひかせて一軒持たせると約束したこともないといい切った。 「あいつは少し可笑しいんじゃありませんか。あんまり荒稼ぎするから、頭に毒がまわったって、あの土地の女達もいっていましたよ」  これはもう、男と女の水掛論である。  結局、おもんの紋次は、源三郎がきつく叱って、今後、刃物をふりまわすとお上のお手数をわずらわすことになるからと、なかば、おどして深川へ送りかえした。  若夫婦のほうは、これは形の上では被害者だから、別にとがめるわけにも行かない。 「人はみかけによらないものですねえ。虫も殺さぬ顔をして……これだから、男ってのは怖いですよ」  昨夜は似合いの夫婦雛のようだといった口で、お吉は萩の間の客をこき下した。      二  その夜の中に、源三郎が深川と、清吉の取引先の醤油問屋をまわって調べたところでは、清吉とおもんの仲は、おもんの申し立てのほうがどうやら本当らしく、ただ、深川へ招待した醤油問屋のほうは、清吉とおもんの仲をまるで知らなかった。 「知っていれば、深川へお招きは致しません。そういうことがあるのなら、清吉さんもあの土地は困ると、はっきりいってくれればよろしゅうございましたのに……」  むしろ、迷惑顔である。  その店で、源三郎は一つ、新しいことを訊いて来た。  清吉は養子だということであった。つまり、今度、清吉が跡を継いだ佐原の醤油屋、丸藤というのは、先代が早く死んで、親類が店をあずかり、一人娘のおたよが年頃になったら、然るべき聟を迎えて、店を継がせることになっていた。 「親類が早くから、これはと思う男を何人かえらんで丸藤へ奉公させ、商売見習をさせて、その中からおたよさんの気に入ったのを聟にきめるという話でして……」  清吉はその一人だったという。 「あきれた男じゃありませんか。丸藤の聟になったら、お金が自由になる。大方、それをあてにして、紋次さんに調子のいい約束をしていたのに違いありませんよ」  源三郎の話を、東吾と一緒に聞きながら、るいは盛んに腹を立てた。 「そうするとなにかい、何人かいる男の中で、おたよが気に入ったってのが、清吉というわけか」  東吾がいい、るいは、 「ろくな男がいなかったんですよ、きっと」  憎まれ口をきいた。 「いや、もう一人いたそうですよ」  新次郎といって、 「男っぷりは清吉ほどではないが、誠実で物堅く、人柄に愛敬があって、問屋ではむしろ、そいつのほうがおたよさんの聟になるのではないかと思っていたそうですが……」 「駄目だったんですか」 「死んだそうです」 「死んだ……」  東吾が盃を口へ運びかけた手を止めた。 「病気かい、源さん」 「いや……」  村はずれの北側に底なしの沼がある。時折、土地不案内の者が、霧のため、その沼に落ちて死ぬことがあるのだが、 「新次郎というのは、そこで死んだそうです」  しかも、江戸へ丸藤の集金に出かけた帰り道だという。 「その沼は街道筋なのか」 「いえ、街道からはずれているそうです」  新次郎がなんのために、道を逸《そ》れて、そんな所へ分け入ったのか。 「集金の帰りで、懐中にはかなりな金があったそうですが、それは奪《と》られていて、おそらく、金をねらった者の仕業ではないかといわれたが、結局、犯人は挙がらなかった」 「ちょっと……可笑しくありませんか。清吉って人が、もし、色と欲で……」  るいが忽ちもと八丁堀同心の娘に戻って膝を乗り出した。 「いや、その点は手前も気になって突っ込んでみましたが」  源三郎が苦笑した。  新次郎と清吉は幼なじみで大変な仲よしだったという。おまけに清吉は新次郎の妹のお七というのといいかわした仲で、おたよにはまるで関心がなく、かえって、新次郎を応援していたと、問屋の主人も証言した。 「清吉さんは、いつも、おたよさんの聟になるのは新次郎の他はない。おたよさんのためにも、丸藤の店のためにも、なんとか新次郎の恋をかなえてやりたいと、いつも熱心に語っていたというのですよ」  自分は新次郎の妹のお七と夫婦になって、新次郎の片腕となって店を助けて行きたいというのが清吉の夢だったようだ。 「じゃ、どうしておたよさんと……」 「お七が自殺してしまったんです」 「自殺……」  兄の死後、ひどく陰気になって周囲も心配していたのが、或る夜、井戸へ身を投げて死んでいるのを、朝になって発見された。 「どっちも二年前の話です……」  親友と恋人に死なれた清吉の悲嘆ぶりは大変なもので、江戸へ出て来たその年の秋などは、痩せこけて、問屋の主人に、自分も死にたいと泣いて、主人から、 「お前が死んだら、丸藤の店はどうなる……おたよさんはどうなる……」  と意見をされて帰ったこともあるという。  おたよと夫婦になったのも、いわば恋人を失った者同士、慰めたり慰められたりが、やがて新しい恋を育てたというのではないかと周囲はみているらしい。  それはそれとして、深川の紋次のことも、これで解決したとも思われないので、翌日にでも、もう一度、清吉と話をしてみようと思うといい、源三郎は律義に帰って行った。  東吾のほうは、当然なようにるいの部屋へ泊る。 「いけない人、お兄様が御病気中なのに……」  口では拒みながら、翌朝のるいは露を浴びた花のように、あでやかであった。 「半月ぶりの朝飯だな」  るいの部屋で向い合って早い食事をすませると、それでも東吾は慌しく八丁堀へ帰って行った。やはり、兄の病状が気になるらしい。  東吾を見送って部屋へ戻ってくると、お吉が、おたよを連れて来ている。 「折入ってお願いがございまして……」  昨日の女、深川の紋次に金を届けたいとおたよはいった。 「お金で手を切ってくれと申すのではございません」  主人が江戸にいるのなら、又、折をみて詫びのしようもあるが、明日は佐原へ帰ってしまうし、自分の手前、紋次に逢いにも行きにくいだろうという。 「いずれ、主人が江戸へ出て参れば、それ相当のおわびも致しましょうが、とりあえずの償いのつもりで……」  芸者をやめるには足りないかも知れないが、 「せめて、あの人が、まわりの方々に面目の立つようにして頂ければと存じまして……」  昨日今日の若女房にいえる言葉ではなかった。いわば、亭主の江戸の女を公認しようという口ぶりである。 「ただ、私が参ったのでは、お金を受け取って下さるとも思いませんし、私がさし出たことをしたと主人に知られたくもございません」  金は自分の持ち合せだから、かまわないが、誰か一緒に深川まで行って、紋次のおもんに金を受けとらせてもらえないかという。  結局、るいは嘉助をつけてやることにした。 「重ね重ね、申しわけございませんが、主人が起きましたら、私は近所へ買い物に行ったと、おとりつくろい願いとう存じます」  おたよはしっかりした口調でいい、嘉助と一緒に「かわせみ」を出て行った。 「たいした人ですねえ。若いのに……」  大店の女房には、夫の浮気を男の甲斐性と許して、妾の本宅出入りを許し、季節ごとに着るものなどをみつくろってやる人がいるというが、と、お吉は変なところで感心していた。 「辛抱っていうんでしょうが、あたしはあんまり好きじゃありませんよ。そんな忍耐をさせるご亭主もあんまりだし、するおかみさんもみじめじゃありませんかね」  るいは黙っていたが、そこは女でやはり我が身に思い合せる。  東吾が浮気をして来るくらいならまだしも、別な女に家でも持たせるほどの仲になったら、とても平静ではいられまいと思う。もっと怖いのは、東吾が正式に妻を迎える時である。  八丁堀の吟味方与力の家柄だし、兄夫婦には子供がいない。東吾の兄の通之進が折をみて、弟に家を相続させるつもりでいるのは、八丁堀では周知であった。  そのために、東吾にどんないい家から養子縁組の話がきても、耳も貸さない通之進だと、これはるいがまだ八丁堀同心の娘だった時分から評判であった。  東吾が神林の家を継げば、どうしてもそれにふさわしい妻を迎えねばなるまいと思う。  深川の紋次が清吉より三つ年上だったということに、るいはこだわっていた。るいも東吾より一つ年上である。  これも、ちらときいたことだが、八丁堀の与力の家で十七、八の娘を持つ親は、なんとかして、東吾の嫁にと心がけていて、なにかにつけて、通之進夫婦に娘をひき合せたり、謎をかけたりしているという。  るいは鏡の前で放心していた。全身に東吾の名残りがあって、それが今朝はひどく悲しい気がする。  一刻ほどで、嘉助はおたよを連れて帰って来た。  夫の手前をごま化すためか、おたよは買い物を手にしている。 「おかげさまで、ありがとう存じました」  礼をいって、すぐ萩の間へ帰って行く。  紋次は家にいて、嘉助一人が逢って、ともかくも金は渡して来たと嘉助が話した。おたよはずっと外で待っていたようだ。 「手切金ではないと申しましたし、紋次は別になんともいいませんで受け取りました」  深川の芸者は検番がなく、いわゆる芸者屋がないわけではないが、自分の家から通っている者が多い。紋次も狭い裏長屋だが、一人暮しでそこから親許になっている店へ行って、座敷へ出るらしい。  かなり、荒廃した暮しをしていると嘉助はいった。 「あれでは、男がよりつかなくなります」  若くて、器量のいい嫁を迎えて、清吉が紋次に金を使うのが馬鹿らしくなるのも無理ではなかろうというのが、嘉助の感想だったが、 「さあ、どうですかね。男ってのは、案外、腐った花がいいってところもありますからね」  お吉はきいたふうなことをいっている。清吉と紋次の仲は放っておいても切れるというのが嘉助の意見で、焼けぼっくいに火がつくだろうというのが、お吉の主張だった。  その日も午後になって、萩の間の夫婦は出かけた。 「いろいろ土産を買って来なければなりませんので……」  昨日、あれだけ迷惑をかけ、恥かしい思いをしているのに、清吉のほうは一夜あけたら忘れたような顔をしている。 「お買い物には、どちらへお出かけでございますか」  ひっそりうつむいているおたよの心中があわれで、帳場にいたるいは声をかけた。  夫婦になったばかりの旅で、夫の不行跡を知らされながら、その後始末まで済ませねばならなかった女房である。  おたよが顔を上げる前に、清吉が女房の機嫌をとるように言った。 「今日は浅草へ参ります。家内が丁字屋の紅が欲しいと申して居りまして……その店では紅を買うと紅花染めの小手拭をくれるそうで、これはずっと前からそれをたのしみにしていたようでございます」  お吉がひょいと口をはさんだ。 「紅花染めの小手拭をくれるのは丁字屋じゃありませんよ。本町通りの玉屋です。玉屋紅って……もう五年も前から大変な評判で……近在の方は江戸のお土産にわざわざ買ってお帰りになるくらいですからね」  るいはその時、うつむいていたおたよの顔に戦慄のようなものが走ったのを、はっきり見た。  だが、それは一瞬のことで、 「おい、紅花染めは玉屋だそうだが、玉屋でいいのかい」  清吉がいい、おたよは小さくうなずくと、るい達の眼を避けるように、夫のあとから出て行った。      三  夕方になって、町廻りの帰りだといい、畝源三郎が、「かわせみ」に顔を出した。 「あの夫婦、どうなりました……」  やはり、若い夫婦仲のその後を案じていたものだったが、嘉助が深川の女の家まで一緒に行って、金をかわりに渡したことを告げると、ちょっと首をかしげた。 「るいさん、どう思いますか」  帳場の外に腰をかけたまま、訊ねる。東吾と一緒でない時、源三郎はいくら勧めても、決して奥へは通らない。 「どうって……女として出すぎたことをするという意味でしょうか」 「いや……」  源三郎がちょっと考えている時、岡っ引の新八というのがとび込んで来た。 「旦那、申しわけござんせん。ちょっと番屋までお出まし願います」  源三郎の耳にささやいて、あたふたと出て行く。 「川へ突き落された人が助かったらしいですよ」  もう、傍にいて聞きかじったお吉が、源三郎が立ち去ると、すぐにいう。 「まだ、大川は冷たいのに、突き落されたらたまりませんよ」  たまたま、客の着く時刻で、話はそれっきりになり、お吉もるいも忙しく立ち働くことになった。  おたよは一人で帰って来た。 「主人は、まだ挨拶に廻るところがあって、少し、遅れて帰ります」  食事は帰って来てから一緒にするといわれて、仕度をして待ったが、更に一刻待っても帰って来ない。  どうしたものかと女中に相談されて、るいは塗小鉢に煎餅を入れ、茶を新しくして萩の間へ行った。  おたよはぽつんと部屋から大川を眺めていた。  大川にかかった橋の袂の番屋に小さい灯が光ってみえる。月がもう上っていて、対岸もおぼろに夜の中で浮び上っている。  橋を渡ってまっすぐに行けば深川であった。  おたよが、ぼんやり、そっちを眺めていた気持がわかるようで、るいはさりげなく茶をいれた。 「大川で人が突き落されたそうでございますね」  おたよがいきなりいい、るいは驚いた。 「御存知でしたか」 「先程、こちらのお方が話していらっしゃるのをききました。仲のよい同士が、お友達をいきなり突き落したとか」  仕方なく、るいは話した。 「女の人を争っていたそうですよ。もっとも二人は子供の時からの仲よしで、殺されかけた人は、お友達もその女に夢中だとはちっとも知らなかったそうですよ」  友人もその女に惚れているとは夢にも思わず、恋の悩みも打ちあけたし、女と意気投合してからも、その首尾も次第も、全部、その友達に話していた。だから、安心して川っぷちも一緒に歩いたし、突き落されるまで相手を信じ切っていた。 「その方、運がよかったんですよ。突き落された時、棒杭で胸を打って気絶して、水を少ししか呑まなかったんです。流されているところを夜釣のお客の舟にひっかかって……救い上げられたのは今朝だそうですが、意識が戻ったのは午後になってからで……」  介抱した医者が、患者の訴えをきいて番屋へ届けたのが夕方、ちょうど畝源三郎がここへ来ていた時である。  おたよは、るいが案じたように、じっと考え込んだ。無理もないので、この事件は偶然ながら、二年前おたよの周囲で起った事件に、あまりにも平仄《ひようそく》が合うのだ。  おたよの夫となった清吉の親友で、周囲はてっきり、それがおたよの聟になると信じていた男が、沼に落ちて不自然な死を遂げた。  だが、この場合、清吉にはお七という恋人があって、別におたよを好いていたようにはみえない。しかし、結果からいうとお七も井戸へ落ちて死に、清吉は二年後におたよと夫婦になって丸藤の店の主人になった。 「あの……」  ここでそれをいうのはまずいと思いながら、るいはつい、きかずには居られなくなった。 「お店から江戸へ御商売でお出でになった方々は、いつ、帰るのか、あらかじめ、きめてお出かけになるのですか」  おたよが、るいをみた。 「はい、およそは決めて出かけます」 「およそ……すると、お帰りの日はわからないわけでございますね」  もし、清吉が帰ってくる新次郎を待ち受けていて沼へ突き落して殺したとすると、帰ってくる日がわかっていなければ都合が悪い。 「時々は江戸から知らせが参って、いついつに帰るとわかることもございますが……」  新次郎が殺された時がそうだったのかとるいが訊こうと思った時、おたよがこめかみをおさえて苦しげにいった。 「申しわけございませんが、少々、気分が悪いので、先にやすんでいようかと存じますが、仕度をお願い致します」  顔色が悪かった。 「それは、いけません、すぐ用意させましょう」  手を叩いて、お吉を呼び、布団を一組敷かせた。 「もし、なんでしたら、お医者を呼びましょうか」  おたよは首をふった。 「ただ、疲れただけなのです。眠れば治ります」  食欲もないから、静かにねむらせてくれという。 「寝不足なんですよ」  戻って来て、お吉が可笑しそうにいった。 「旦那のほうはお昼まで寝ていましたからね。あの人は二日とも早起きしているし……」  佐原から舟で江戸へ出て、今日で三日、新嫁としては、ねむくてねむくてたまらなくなる頃だと、お吉はわかったようなことをいって、若い女中を笑わせている。 「旦那は、どこへ行ってるんでしょうねえ」  夜が更けて、大戸を下す頃になっても、清吉は帰って来ない。 「ひょっとして、あの女のところへ行ってるんじゃないでしょうかね」  お吉が眉《まゆ》をしかめた時、くぐり戸が軽く叩かれた。  てっきり、清吉と思い、嘉助があけると、 「遅くにすまない……例の一件が気になってね」  照れくさそうな東吾であった。 「まだ帰って来ないんですよ、ご主人のほうが……」  心得て、お吉は東吾に間の悪い思いはさせない。 「ほう、で、女房は……」 「それが、宵の中から寝ちゃったんです」  適当に話して時刻を稼いでいる中に、るいがすっかり化粧を直して、いそいそと帳場まで出てくる。 「大丈夫ですか、お屋敷のほう……」  さっさと自分の部屋へひっぱって行って、嬉しそうな顔が、もうかくせない。 「医者が、もう心配ないといったんだ。明後日に床あげをする」  そうときいたら、たまらなくるいの顔がみたくなって、昨夜の今日で流石に香苗にもいいにくく、更けてから内緒で抜け出して来たという。 「無茶をなさるのね」 「あんまり、おあずけをくったんで、るいに飢えたのさ」  いきなり抱き寄せて、唇を合せる。 「いや、萩の間のご夫婦みたい……」  つい、口に出て、るいはまっ赤になった。 「深川の女にふみ込まれた時、二人とも素っ裸だったってな」  東吾が笑って手を放した。  廊下をわざと足音をたてて、お吉が酒肴を運んでくる。 「よろしいですか、お嬢さん」  障子の外から訊いたのに、 「大丈夫だよ、お吉、俺達はそれほどほやほやじゃねえからな」  東吾が行儀悪く応じた。 「それでは、お邪魔を致します」  赤くなっているるいをみないように、お吉はお膳を入れて、自分は部屋へ入らず、 「どうしましょう、まだ、帰らないんです、萩の間……」  心配そうではなくいいつける。 「まあ、放っておけよ。どうせ、女房は寝てるそうじゃないか」 「ええ、まあ、うちのほうは番頭さんが不寝番をするっていいますから……」  お嬢さんはご心配なくおやすみ下さい、と、お吉はそれをいうためにやって来たようなものであった。 「あたし、なんだか、おたよさんって人、ご主人に欺されているような気がするんですよ」  二人になると、るいは早速、話し出した。  もともと、清吉はおたよが好きで、友達の新次郎を殺したのではないかという疑惑である。 「しかし、清吉はお七という女がいたそうじゃないか」  殺された新次郎の妹である。 「最初はお七って人が好きだったのかも。でも、おたよさんは家つき娘だし、清吉って人は、自分がおたよさんを好きだってことを人に知らせないためのかくれ蓑にお七って人を使ったんじゃありませんか」  ちょっと眼はしのきく人間ならば、おたよが新次郎を好きだとはすぐわかる。新次郎が清吉に打ちあけたとも考えられた。 「おたよさんって人の性格から考えたら、好きなら好きと女の口からでもはっきりいえる。愚図愚図、迷っているような人じゃないと思います」  おたよから好きだと打ちあけられた新次郎が、誠実で生真面目な男なら、まず、親友に、すまないという心をこめて、これこれだと話す。その時、清吉が負けずぎらいの男なら、 「俺はおたよなんぞ好きじゃない。お前の妹のお七が好きだったんだ」  ぐらいの嘘は平気でつくだろう。いってみればお七が好きというのは方便、出まかせと考えられはしないだろうか。 「新次郎という人は正直だから、お友達がおたよさんのことはなんとも思っていない、俺が好きなのは、お前の妹だといわれれば、安心して、おたよさんとのことをなにもかも打ちあける。清吉はそれがつけめだったんじゃないでしょうか」  東吾はるいが話に夢中になっているので、手酌で飲んだ。 「清吉が新次郎を殺したとして、お七はどうする。うまく自殺してくれたからいいようなものだが……」 「自殺でしょうか……」  るいが眼をきらきらさせた。 「お七さんは井戸へとび込んで死んだんです。とび込むところをみた人もいない。書きのこしたものもなかったら……自殺じゃないかも知れません」 「清吉が突き落したってことか……」 「お友達を沼へ突き落すくらいのことをする人なら、その妹さんだって……」 「もう一つ、あるよ」  立てつづけに盃をあけて、東吾はいった。 「新次郎が殺されたのは、江戸からの帰り道だ。いつの何日に帰ってくるってことが、清吉にわかっていないと……」 「前もって、江戸を発つ前に知らせてくることもあるんですって……何日に佐原へ着くということを……」  東吾が盃から顔を上げた。 「誰に訊いた……」 「おたよさんに……」 「おたよにそんな話をしたのか」  声が激しかったので、るいはぴくんとした。 「いけませんでした……」  盃をおいて、東吾は少し黙った。 「いつなんだ、そんな話をしたのは……」 「さっき……おたよさんが帰って来て……気分が悪いといって寝る前です」  いきなり東吾が立ち上り、るいは慌てて腰をあげた。 「どこへいらっしゃるのです……」  東吾は指を口にあて、そっと廊下へ出た。ついて来いとるいに手真似をする。忍び足で階段を上って萩の間へ行った。  耳をすます。部屋はひっそりとしていた。 「おい……」  東吾が耳へ口をあてた。 「おたよが寝ているか、たしかめてくれ」  るいはそっと戸をあけた。  行燈は消えているが、間違いなく布団にはたよの寝姿があった。  再び、そっと戸をしめる。 「寝てますけれど……」  東吾がふっと吐息を洩らした。今度はやさしく、るいの腰を抱いて廊下を部屋へ戻る。 「なんです、いったい……奇妙なことをおっしゃるから、どきどきしてしまった」  寄り添うようにしてすわった。 「源さんが、るいと同じことを考えている」  すでに、さまざまの不審な点を問い合せるために、配下を佐原へ発たせたと東吾はいった。 「源さんも、あれで、鋭いところがあるからな。ひょっとすると、るいの考えた通りかも知れない」  東吾が着がえをはじめたので、るいは手伝いに立った。 「もし、もしも、本当にそうだったら、おたよさん、どうするでしょう」  恋人を殺した男の妻に、もう、なってしまっているのだ。  自分の考えた思いつきなのに、るいはそれが当て推量で終って欲しいと祈った。 「なんだか、怖くて……」  東吾の腕の中で、るいは身を縮めた。      四  夜があけても、清吉は帰って来なかった。 「まさか、と思いますが、行って参りましょう」  東吾と二、三言、話をして嘉助は朝の風の中へとび出して行った。  可笑しなもので、こういうことになると昔とった杵柄《きねづか》、八丁堀時代に戻って嘉助までが颯爽としてくる。  間もなく、駆け戻って来た。  清吉が死んでいる、という。 「おもんの家で、おもんも一緒です」  現場はすぐ近所の長助親分に知らせて、しっかり固めてあるという。 「畝様にも、すぐ下っ引を走らせました」  流石に玄人で、打つべき手は全部、打ってあった。  身仕度をして、東吾が先に「かわせみ」を出た。出がけに萩の間をみると、おたよという女は、もう起きていて不安そうに大川をみていた。彼女に夫の死を告げるのは嘉助とるいの役目になっている。  深川へ入ると、もう長助の下っ引が、町の辻に立っている。 「今しがた、畝の旦那がお着きになりました」 「相変らず、早い奴だな」  下っ引に案内されて、紋次の家へ行った。家の前にも若い者が立っている。  格子戸の中は血の海であった。  六畳ひとまのまん中に布団を敷き、そこで清吉は死んでいた。  寝ているところを一突きにされて、血が布団にしみ通っている。おもんのほうは畳に出たところでうつぶせになっていて、咽喉に脇差が突きささっていた。 「東吾さん……」  源三郎がふりむき、東吾を招いた。 「えらいことになりました……」  清吉の傷は三カ所で、胸に二カ所、咽喉を突き通している。 「先に胸を突いて殺し、念のために咽喉を突いた。清吉のほうは最初の一突きで、絶命し、殆ど抵抗らしいことはなかったようです」  女のほうは下から咽喉を突いた形になっていて、これは自殺のようでもあった。 「男が逢いに来て、別れ話でもしたんじゃありませんか。女はかっとなって、男がうとうとしたところを、無理心中するつもりで殺《や》ったようで……」  脇差が誰のものかわからなかったが、やがて、嘉助が連れて来たおたよの口から、清吉のものだと知れた。  そのおたよは現場を一眼みるなり気を失ってしまった。  無理もないことで、夫婦になって間もない夫が、旅先の江戸で女と死んだのだから、これはもう動転するのが当り前であった。  おたよは長助親分の家へ運ばれて、医者の手当を受け、これも遅れてからかけつけたるいが付き添った。  検死をすませた二つの死骸はとりあえず、番屋へ運ばれて、東吾は源三郎と近所の湯屋へ出かけた。  なにしろ、血の匂いが、体中にこびりついているようである。 「おもんが殺ったと思うか」  誰もいない朝風呂で、東吾が手を洗いながら訊く。 「おたよは昨夜、かわせみにいたのでしょうな」  源三郎が、まず念を押した。 「いた……夕方に帰って来て、五ツ(午後七時)過ぎまで部屋にいた。るいが逢っているんだ」  気分が悪いと早寝をして、 「俺が、ちょっと気になることがあって、るいにもう一度、萩の間を確かめさせた」  その時も、おたよは寝ていた筈である。 「おもんが無理心中するのは不思議じゃない。おもんが清吉を殺しても可笑しくはないのだが……」  前夜、「かわせみ」を訪ねて来て剃刀をふりまわした女である。 「東吾さんが気になることっていうのはなんです」  源三郎にいわれて、東吾は昨夜、るいから訊いた通りをもう一度、復唱した。話している中に東吾の心の中にも、下手人の影がぐんぐん濃くなって行く。 「脇差のことなんですが……もし、外から清吉を殺す目的で入って来たのなら、刃物を持ってくると考えられませんか」  源三郎は考えをしきりに整理していた。  紋次の家へふみ込んで、たまたま、そこにあった清吉の脇差を使うというのが不自然な気がする。 「おもんなら、たまたま、そこにあった男の脇差で、というのが合点が行きます。外からわざわざ殺しに来たとなると……」 「清吉は昼間、かわせみを出かける時、脇差をさして出ただろうか」  東吾が思いついた。脇差は旅の道中の用心である。江戸の町を買い物に歩くのに、武士はともかく、町人が馴れない重い脇差を差して出るものかどうか。  ちょうど、お吉が気をきかせて、東吾と源三郎の着がえを届けに来たところであった。 「脇差なんて、さしていませんでしたよ。お二人が出かける時、あたしとお嬢さんが見送ったんですから、よくおぼえています」  お吉は、はっきり答えた。 「……東吾さんが気になって、萩の間をおるいさんに見てもらったのは、何刻頃ですか」  東吾も、それを計算していた。 「九ツをすぎていた。いや、もう丑の刻になっていたかも知れない」  気分が悪いといって寝てから、次にるいが見に行くまで、ざっと三時間から四時間。 「源さん……」  大川端の「かわせみ」から、深川まで女の足で往復できないことはない。  その頃、長助の家では、るいがおたよから思いがけないことをきかされていた。  最初、るいはそれをおたよのうわ言かと思った。細い声で、低く、なんの脈絡もなく喋り出したのである。 「気がついたのは、玉屋の紅なんです」  なにをいうのかとるいは身を乗り出した。おたよは眼を半眼に閉じ、呟くように続けた。 「あたし、江戸へ行く新次郎さんに玉屋の紅を買って来てくれといったんです。出かける朝、新次郎さんはいいました。丁字屋の紅だねって……あたし、その時、新次郎さんとの別れがつらくて、ぼんやりしてしまって、うっかり、ええっていいました。新次郎さんが旅立ってしまってから、あたし玉屋の紅だったと気がつきました。玉屋の紅は、とれにくいし、紅花染めのきれいな小手拭をくれるといって、佐原でも評判になっていたんです。でも、あたし、いいと思いました。丁字屋の紅でも……新次郎さんが買って来てくれるものなら、なんだっていい……でも、玉屋を丁字屋と間違えたのは、その時だけで、そのことを知っているのは新次郎さんとあたしだけの筈なんです……新次郎さんは江戸の帰りに殺されました。玉屋の紅を丁字屋の紅と勘違いしたまんま……どうして、清吉が知っていたのでしょう……」  あっと、るいも気がついた。昨日、清吉とおたよが出かけて行く時、清吉は、たしかにいった。 「丁字屋の紅を買いに行きます。これが、その店の紅を欲しがっているので……」  紅花染めの手拭をつけてくれるのは、玉屋の紅だと、訂正したのはお吉であった。  その時のおたよの顔の翳りの意が、るいにも次第にわかって来た。  玉屋の紅を、丁字屋の紅と勘違いして新次郎は江戸へ発った。その間違いはおたよの他に知るものはない。  清吉がそれを知っているということは、るいの瞼に暗い佐原への街道が浮んで来た。そこで江戸から帰ってくる新次郎を待ち受けている清吉の姿である。  おそらく、清吉はどこかで、おたよが新次郎を待っているとでもいったに違いない。晴れて夫婦になる以前の二人であった。店へかえっては、みんなの手前、手をとり合うことすら出来にくい。  おたよの待っている場所へと、新次郎をつれて行く道で、清吉に彼は告げたのかも知れない。間もなく恋人に逢える嬉しさから、恋人の土産に江戸の丁字屋の紅を買って来たことを。清吉の耳に、丁字屋の紅をおたよが欲しがっていて、それを新次郎が土産に買って来たということ、つまり、丁字屋の紅という固有名詞は嫉妬と共に清吉の脳裡に刻み込まれていたに違いない。  清吉が「丁字屋の紅」を知っていたことは、とりもなおさず、新次郎が江戸から帰るまでの中に清吉と逢った証拠になる。おたよは新次郎を殺したのが、清吉だという確証を持った。  るいが、おたよをみたとき、おたよは喋り疲れたのか、荒い息をしていた。 「お水、お水を下さい」  乞われて、るいは台所へ行った。馴れない他人の家である。水を汲み、奥へ戻った時、布団はもぬけのからであった。  深川の善昌寺という無住寺の境内で、首をくくって死んでいるおたよが発見されたのは、二刻ほど、あとである。  それから三日後、佐原へやった源三郎の配下が帰って来た。  新次郎が江戸から帰る日、やはり文で知らせて来ていた。  そして、その夜、清吉は腹痛を起して早寝をしている。井戸で死んだお七には無論、遺書も、身投げをするところの目撃者もなかった。 「ひょっとすると、お七は兄を殺したのが清吉ではないかと疑い出していたのかも知れない」  恋をしている女は恋人の心の動きには敏感なものだと東吾はいった。 「お七に悟られて、清吉はお七を殺した。一石二鳥のつもりだったろう」  恋は怖いと、東吾がいい、源三郎がくすくす笑った。 「早く、おるいさんを女房になさることですな。さもないと、東吾さんも或る日、友人から大川へ突き落されないとは限りませんよ」  るいは、なにをいわれても暗い顔をしていた。自分の油断で、おたよを殺してしまったことをくやんでいる。 「くよくよするなよ。どっちにしても生きていりゃあいるで地獄をみなけりゃならなかったんだ」  清吉一人ならまだしも、おもんも殺している。おたよにしても死罪はまぬかれなかった。 「おい、風はもう春だぜ」  東吾は、生真面目な友人のみている前で、るいの頬を指の先で突いた。  本書は一九七九年三月に刊行された文春文庫「御宿かわせみ」の新装版です。 〈底 本〉文春文庫 平成十六年三月十日刊